見栄消費と快適消費

目の前の決断が正解か不正解か分かるのは結構先のこと。そう思うことが増えた。すべては「結果的には」の一言で終わるし、今の時点でも全てが途中経過、死ぬまで結論は出ないのだけれど。最近世界がガラッと変わって、これまで仮説として持っていたことが確信に近づいている。

「快適さ」で選んだものは大抵外れない

3年前、諸事情で急に引っ越すことになった。予定しない家探しに戸惑ったが休み時間や土日を全て使って物件を探し歩いた。そして最後に2つのマンションで迷いに迷った。

①ピカピカでハイグレードマンション。ただし全体的にコンパクトで日当たりは普通
②築15年で一応オートロックついてる程度のマンション。部屋は広めで日当たり最高

家賃はほぼ同じ。①はドラマの主人公OLが住んでいそうな感じで恋人や友人を呼ぶのに”カッコがつく”。広々というほどではないけれど、1週間の大半をオフィスで過ごしているのだから十分か。そう考えて決めかけた時、別の不動産会社から②の案内が来た。

「日当たりの良い角部屋が空いたので見ませんか?」

①の物件を先に見ていたので正直外観は「うーん」と思ったが、部屋の中に入った瞬間イメージが変わった。窓が大きくて明るい。そこそこの広さがあり、ダンスの練習やストレッチも余裕でできそう。①が「カッコいい」なら②は「快適」な生活が想像できた。うんうん悩んで後者に決めた。

想定外の事態で在宅勤務となり、自宅が寝床からリモートオフィスとなった今。あの時選んだ「快適」は間違いではなかったと痛感している。

今日もクローゼットとシューボックスの整理と衣替えをしてみて、結局ヘビロテしたものは自分にフィットしたものだったことに気づく。肌触りや、履き心地、動きやすさ。身につけるとなんだか気分が上がるという精神的な「快適さ」も大事だ。一方で単にブランドものだとか限定品だとかという理由で「見栄消費」したものは手に入れた瞬間と、誰かに「それいいね」と言われた時に価値が最大化。その後は「着られてる感満載のワンピ」「靴ずれ必至のハイヒール」「モノが入らないハンドバッグ」に名を変えていた。

これから世の中がどう変わってゆくかは正直わからない。おそらく消費は以前より慎重に、誰かの視線を意識した「見栄消費」は減少傾向になるはずだ。そんな中で「快適かどうか」という判断基準はもっと大事になっていくのでは?と思っている。


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