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他人の目を気にしない

私は今まで他人の目を無意識に気にして生きてきました。そんな人生は本当に息苦しく、毎日が沈んだような気分でした。

そんな私が心理学を学ぶことによって、他人の目を気にしないで生活をしていること。それから、心理学を学ぶ前に比べてストレスも減り、気楽でいられているというただの日記を書きたいと思います。

私と似たような悩みや捉え方をしている人に少しでも役に立てていただけるのであれば嬉しく思います。

他人の目という存在を認識する

私は人前が人一倍苦手。

根拠もなく、他人が感じているよりも何倍も私は人前が苦手なのだと信じ込んでいました。

大学の研究室や仕事では、発表することが何度かありました。友人や同僚に尋ねても苦手だと言います。私は、「あなたより、絶対に私の方が苦手」と心の中では思っていました。

(今では、人前が苦にならないと自分ではっきり言える人以外は、みんな苦手なんだというこを理解しているつもりです。)

私が一番他人の目を気にしている場面が人前で発言をする時です。でも、私は他人の目を気にしているという感覚は今までほとんどありませんでした。

ただ単に「人の前に立つ=苦手」という何の関係もない式が成り立っていました。

つまり人前に出るという事実だけが、緊張であったり苦手意識を生んでいると思っていました。しかし、それだけの説明では不十分であり、なぜ緊張や不安の気持ちを抱いてしまうのかを考える必要があったのです。

なぜなら、人前に出ても緊張しない人がいるからです。

そこで私は、自分がなぜ人前で緊張してしまうのかを考えてみました。見えてきたのは他人の目が怖いということでした。正確に記述すると、他人の目が怖いと ″私が感じている″ ということでした。

私は他人の目に対して、必要以上に怖がっていました。先に申し上げておくと、今もまだ怖いという感覚はあります。長い年月をかけて体に染み込んでしまった感覚であるため、今すぐには抜けないと思っています。

でも私にとって前進したと思えることは、私が他人の目を怖がるという認知があったから私は人前が苦手なんだという因果関係がわかったことです。

私にはどのような捉え方や考え方があるのかを知ることは、成長や進歩に繋がる第一歩目であると考えます。なりたい姿(目的地)を目指すためには現状(現在地)を知る必要があるからです。

また、自分は他人の目が怖いと思っていることを認識することは、自分を客観視できていることになります。客観視が一つのキーポイントとなることは、後述します。

ABC理論

アルバートエリスというアメリカの臨床心理学者が提唱した理論で、認知行動療法でも用いられている考え方です。A(affairs:出来事)に対し、B(belief:その人の価値観や捉え方)があり、C(consequence:結果や感情)という概念です。

私はAだからCと感じるというように、Bを飛ばしていました。そこで私はまず、自分にどのようなB捉え方があるのかを意識する習慣を身につけています。

先ほどの人前の話で言うと、まるで自分を見定めているかのように他人は自分を見ていると、他人の視線に対して ″私が″ 捉えているということに気付くことができました。

つまり、私の発表や発言で、私が他人からの評価が下がることを恐れているのです。

では、他人は本当に私を評価するために、実力を見定めるかのように自分のことを見ているのでしょうか?(本当にそれは事実なのか?というように、一つずつ疑っていく考え方は、ABC理論に続くDとEの考え方ですが、その詳細は省略します。)

もしかしたら本当に他人は自分を見定めるように見ているかもしれませんし、そうでないかもしれません。大切なことは他人の心の中の真実は私にはわからないということです。

ここで、先ほどの客観視の話に戻ります。仮に他人の目が怖いという悩みを持っている友人が、私にアドバイスを求めてきたとします。

おそらく私は、そんなこと気にしなくてもいいよとか、私はそんな目で見ていないよなどと言うでしょう。

自分を客観視するということは、自分自身に対しても同じアドバイスができるということです。

真実がわからないことを考えたり、意識したりすることは意味がなく生産性がないことだと私は考えます。

他人がどう思うかは私にはわからないと割り切ることで、他人の思考や言動に徐々に振り回されなくなってきている感覚があります。

私が質問をできなかった理由

他人の目を気にして、自分の本来の目的達成を邪魔していた他の例をもう一つ紹介します。

わからないことをわからないと言えなかったことです。

そんな当たり前のことができないのかと思われてしまうかもしれませんが、他人の目を気にしていた私からすると、 ″普通の質問″ がなかなかできませんでした。

こんなことも知らないのかとバカにされるのではないか、信頼を失うのではないかという思いからです。

聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥なんて理屈はわかりますが、いざ質問する場に来ると勇気が出ない。そんな気分でした。

でも、恥はかいてもいいのだということがわかりました。正確には「恥をかいたとしても自分で自分を嫌いになる必要はない」ということです。

わからないものはわからないと堂々としておけば良いのです。

ただし、恥をかいたということは、何かしらのミスや間違いをしたことですので、そのミスや間違い自体は極力減らさないといけません。その努力はします。

その結果、恥をかいたとしても、次に活かせればいいではないかと思っています。むしろ、ここで恥をかいたからもう間違えないとか勉強になったと自分で自分を勇気づけています。ここの思考に他人を登場させる必要は全くありません。

もちろん、周りの人間は何かしら言ってくる可能性が高いです。本気で苛立たれるかもしれません。私を人格否定してくるかもしれません。

過ち一つで人格を否定されていては、神様にでもならない限りやっていけません。過ちに対する言及は真摯に受け止め、それ以外は無視です。感情に任せて言われた内容も全部無視でいいかと思います。

それでも人格否定をされ続けるのであればその場から全力で逃げるつもりでいます。

このように考えることで、私は自分の目的のために、何をすべきかを常に考えています。

まとめ

自分の感情や感覚に焦点を当てることによって、私の思考から、他人が消えていきつつあります。最近では、気楽に生活ができているように思いますし、私がやりたいことに集中ができているような気がします。

ただし、やりたいことができているとは言っても、何でも好き勝手やるという意味ではありません。人は生きていくためには違う価値観の人と必ず関わります。

その関わりの中では最大限(自分ができる範囲)の配慮や気遣いをすることはマナーだと思います。違う価値観同士が意見をぶつけ合うだけではただのケンカです。

嫌われる勇気でよく知られるようになったアドラーもストレスのほとんどの原因は対人関係であると言っているくらいです。

そう考えると、この記事の内容は、対人関係における私のストレスを減らす方法ではあると思います。しかし見方によっては、私と関わる他人からしたらストレスが増えてしまうかもしれません。

でも、私は他人のストレスも増やさない関わり方をする努力もしています。このあたりも別の記事として書きたいと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。ご自身の中で何かの気づきを得ていただけたのなら私も嬉しく思います。

(おわり)

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