七原くん的幸福論

 ニコニコ動画を中心に活動しており、一部から異常な人気を誇る生配信者七原くん。彼の配信を見始めて、はや数年になる。
 見始めた当時は「おいおい、イカれたやつが居るもんだな。お世辞にも頭がいいとは言えない私より頭が悪いのは致命的だよな」という安直な感想を抱いており、就寝時や料理中などのBGMとして楽しんできた。
 
 知らない方はYou Tubeなどで調べてみればすぐに出てくると思うが、簡単に紹介すると2023年時点で34歳の仕事の続かない借金と滞納の積み重なったギャンブル中毒のおじさんである。

 それだけ聞くとただ壊れたおじさんにしか見えない。他にもたくさん属性を持っているがそれらを羅列していくともっと壊れたおじさんにしか見えない為、ここらへんに留めておく。

 そんな七原くんは仕事が長く続かず、何かに付けて文句を言って仕事をやめたり、あるいは配信が職場にバレて仕事を辞めざるを得ない状況に追い込まれて辞めることになったり、たまに契約満期で退職をすることもあるが理由はどうあれ、続かない。
 また、郵便受けを確認せず、溜まったらオートマチックに捨ててしまうという習性をもっており、それにより幾度となく窮地に追い込まれたりもしている。家賃の滞納も重なり、以前の住まいはそれを理由に強制退去となっているにも関わらず現在の家の家賃も滞納してしまっているという有様だ。
 
 ここまでまとめると現代の社会生活を営む人間として大きな欠陥があるように見えて仕方がないし、視聴者からもそれを指摘されている。
 
 何故そうなっても尚、彼は生活態度を改めないのか。本人は「怠け者なだけ」「だって出来ないんだもん」という声を上げている。
 それに対して視聴者は「ADHDだ」「病院いけ」といったコメントを返す様が最早、習慣となっている。
 私自身、彼の配信を観始めた当初は同様の感想を持っていたし、愚かさの極みだとすら思っていた。
 
 しかし、それから時が経つにつれて彼に対して感じる感情が変わってきたた。それがなんなのか、うまく表現出来なかったが「まぁ、どうでもいいや」と考えるのを辞めていた。
 それから少しして最近、言語学に軽く触れる機会があり、それによって七原くんに対して私が感じていたものが掴めてきたのでそれをまとめていく。
 
 近代言語学の祖と言われる「ソシュール」という人物がいる。ソシュールは「個々の存在に名前を付けることで意味を規定する」という価値観を生み出した。
 この文章だけ読むと些かばかり難しそうに感じてしまうが簡単にまとめるとこういうことだ。

 今、目の前にガラスのコップがあるとする。しかし、それは言ってしまえばそれはただのガラスの塊である。だが、それを「コップ」という名前を付けることにより、それはコップとして中に飲料を入れて飲むことの出来る存在になり得る。
 また、そのコップも人によっては「ぐい呑み」と呼ぶこともあるかもしれない。そうやって名前を与えることによってその存在というものを左右する。そして、用途などの差異で必要に応じて名前は細分化していく。
 といった具合だ。(詳しくは私の薄い知識を露呈させるだけなので避ける)

 そのソシュールの概念に触れて、至極当然の様に使っていた言葉というものへの意識が変わると同時にそこから発展した考えが浮かんできた。
 
 逆に考えれば「私がコップを飲料を飲むために使う、という行為が無ければ私の見ている世界にはコップは存在しない」ということになる。飲み物をガラスで出来た円筒状の容器に入れて飲む習慣、そういった概念が無ければ他の人がコップとして使っていたとしても、そのときの私から見ると「なんだか変な飲み方をしているなぁ」という風になるわけだ。
 一見すると馬鹿らしい事に思えるが、その概念(この場合においてはコップ)という言葉・概念が無ければ、それらを認知すること自体が出来ないわけだ。
 名前、というものはそれを使う人間によって「勝手に」つけられ、意味を与えられる。そして存在というものはそれに依存するということになる。
 
 例えばフランス語で「蝶」のことを「パピヨン」と言うが、「蛾」のことも同様に「パピヨン」だ。フランスでは蝶と蛾を区別する必要性というものが無かったため、表現は同じ言葉を用いられている。同様に蝶と蛾を区別していない国というのは多数存在している。
 それによって暮らしている文化圏においてその存在というものはどこまでも曖昧だということが分かる。
 他に例を挙げると、とある民族では過去や未来というものを表す言葉が存在しない、という事実もある。これも表面だけ何も考えずに見るとそれだけ「後進的」と捉えられかねないが、そもそも時間というものは我々人間が生活する上で必要に駆られて生み出した概念に過ぎない。存在するのは「今」だけだ。過去から未来への流れというものもただの物質の変化でしか無い。それにただ我々が都合よく「時間」という名前を与えた過ぎない。
 
 そういった目で見てみると今まで自分の中で確固として存在していた(と思っていた)物や常識などが如何に不確実なものだったか、と感じられてくる。
 
 さて、七原くんに戻そう。
 
 彼は、表面だけを見ると異常行動を繰り返す「やばいおじさん」という風に見えるが、先程の常識の不確かさというフィルターを通して見てみると、その行動一つ一つは彼にとってあくまでも意味のあるものであり、現代日本における「一般的な価値観」では推し量ることが出来ない異文化を持っているだけだということが分かってくる。
 
 例えば、彼には日本語の語彙力というものが著しく欠如している。そこだけを切り取るとただの馬鹿なおじさんだが、彼は今までの人生を生きてくる中でそういった語彙力を必要とした会話を行ってこなかったのだ。それにより、それらは不要なものとして彼には取り込まれること無く今日に至っているというだけのことだ。我々が密林の奥地に済む原住民族の文化を生活に取り入れることが(おそらく、あまり)無いように彼にとってそれらが魅力(必要)の無いことだった、というだけのことだ。

 それは、多数派の人間であれば仕事や人付き合い、日常生活などで必要とされ、培われていくものだが、彼はあくまでも特殊かつ限定的なコミュニティの中でのみ生活を送ってきたということが起因していると思われる。

 仕事であれば辞めてしまえば済むし、滞納などに関しては正当な理由が無くても「あのぉ!あのぉ!あのぉ!困るんですぅ!」とダダをこねて相手が折れるのを待つか、あるいは強制執行の様な力で事態が進むのを待つだけだ。人間関係は基本的にはインターネット上が主となる為、見ている側がそれにアジャストするだけだ。なかなかどうして、奇跡的なまでに語彙力を必要としない生活を持っている。
 必要としないからこそ、発達してこなかっただけのことだ。一般的な人間の生きる世界(文化圏)では必要とされるからこそ、定義されて存在することが七原くんの生きる世界(文化圏)には必要とされていないからそもそも「存在しない」のだ。
 
 また、仕事をすぐに辞めてしまったり、生活費をギャンブルに充てることにより結果的に生活が苦しくなったりするのも先のことを考えない馬鹿だ。という風に見えてしまうが、時間という概念に囚われず「間違いなく存在している今という瞬間」を生きているが故のことだ。
 先の自分がそれにより苦しむとしても、先の自分という不確かな実態のない存在は、七原くんの深層心理のなかでは存在しないものだ。そうなると今あるお金を目先の快楽につぎ込むという心理はなんらおかしいものではない。
 人によってはそれを自己正当化の言い訳という風に一蹴するかもしれない。しかし、物理学者の間では「時間というものは存在しない」という意見が最近では増えている。そういった話に転化するとこれまた収拾がつかなくなる為、割愛させて頂く。
 しかし、実際難しい理論などは無視して考えると「間違いなく存在していると認識出来るのは今しか無い」という事実だけはすぐに出るのでは無いだろうか。
 未来というものは「だいたいにおいて」くるものではあるが、それは今まで何事も無く生きているからこそ錯覚してしまうだけで(何事か起きた人はもう死んでしまっているので意見出来ない)、どこまでも不確かなものだ。また、過去に関してはあくまでも脳内に記憶として残っているものなので「認知」する進行形での事象とは大きく異なる。となると時間や未来というものはある意味では「存在しない」とこの場では結論付ける事ができるのではないか。
 その上で、存在しないものにコストをかけずに間違いなく存在しているものにそれを集中させているというのは至極合理的といえる。
 
 そういう視点で見ると彼は「無意識下の究極の物理主義者」とも言えるかもしれない。

 これは価値観が凝り固まった現代人にはやりたくても出来ない芸当だ。どれだけ無鉄砲に今を生きようと思っても多くの人間は「明日以降」という不確かなものに感情を揺さぶられて行動を起こすことが出来ない。七原くんのフットワークの軽さはそうった価値観から解放された結果なのだろう。
 
 また、心理学者・精神科医であるアルフレッド・アドラーは「人間の悩みの原因の全ては人間関係にある」と言った。
 金銭、色恋、果てには健康問題も自分自身しか居らず、比較対象が無ければ悩みとなることはない。
 そして、そういった人間関係を承認欲求をベースに構築してしまうと「幸福」から遠ざかる。その為、自分らしさに重きを置き周りの評価を気にせず「嫌われても良い」と思うことが重要だ。とも言っている。
 これらは「嫌われる勇気」という本に詳しく書かれているので気になる人は読んでみるといい(私は職場に備品として置かれていた為読んでみたが、正直言って好きにはなれなかった)。
 
 一般的な人間には自分らしさ、と承認欲求というものを両立することは中々難しいことだ。それらは社会的な立場などによって阻害されることもあるし、「嫌われない」ことが必要になる場面もある。そういった要素によってこの場合における「幸福」というものから遠ざかってしまう(「幸福のあり方」について、この知見には思うところがあるがそれは話が広がって収拾がつかなくなるので置いておく)。

 しかし、七原くんはどうだろう。
 彼が構築しているインターネット配信を中心とした人間関係においては「主導権」は間違いなく七原くんが握っており承認欲求を満たしながら自分らしさを全面的に出す事ができている。
 常に一定数の視聴者が彼を支えているし、彼にどれだけ語彙力が欠如していようと視聴者は好きに解釈をする。発言に対してのカウンターは行われるが、それを彼が理解していなかったとしても主導権は彼にあるので理解されないまま物事は進んでいく。
 その他の他者との繋がりである仕事も「業務」という目的さえ果たせば(果たされているかは別として、短いスパンでは)成立する。それに辞めてしまえばそれもリセットされ、ストレスから開放される事ができる。
 そう、全て解決しているのだ。
 多くの人間がアドラー心理学を前に「理論上可能かもしれないが事実上不可能ではないか」と悩む中、彼はそのアドラー心理学をやすやすと超えているのだ。
 
 アドラーも真っ青である。
 
 とはいえ、七原くんにも悩みはあるだろう。それは現代日本で生きる以上、大なり小なりの差はあれど避けられない事だ。しかし、多数派として生きる人間と比べて七原くんはこのアドラーの言うところの「幸福」に一番近い存在ではないだろうか。

 現代社会の中である種の生存戦略として洗練された生き方をしている七原くんというものは我々の生活の中で視野を広げる大きな要素になり得る。
 そして、これからは「どうしようもない愚鈍な馬鹿」と認識をしていた人間に対しての見え方も大きく変わってくる様に思う。七原くんは自身の人生、配信を通して私の視野を大きく変えてくれた。
 少なくとも一人の人間の価値観を大きく変えるきっかけをくれた七原くんには感謝しか無い。
 
 この私の個人的な所感が七原くんに届くことを祈って。
 
 かしこ。

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