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幼児教育現場に学ぶ

今日、息子が来年度から通園することが決まった幼稚園の作品展に参加した。

作品展のテーマは

「こどもがつくる世界」

54回目を迎えたそうだ。

この作品展は、作品展のための作品展ではない。

日常で子どもたちが主体となって作って遊んだもの、作って遊んでいるものが展示されている。いや、展示というよりも、子どもたちの日常がそこにただあるといった方が適切かもしれない。

しかもそれは、子どもの手で作られたものだけではない。

子どもたちが探究し続けているアオムシやどんぐり虫の記録と飼育も作品の一部として紹介されている。
さらに、子どもたちがダイナミックに遊びながら作成中のもので、参加した子どもたちが遊ぶことをどうやら許されている。


これこそ、子どものための作品展のあり方だと感じた。


ある先生から話を伺うと、とにかく子どもたちが協同し、対話をし、自らの遊び場を創り上げていることが分かった。そこには、保育者のさり気ないながら、子どもたちが大きく動き出すきっかけとなる言葉かけがあることも分かった。

同じ年少クラスでも、やっていることは様々で、子どもたちの「◯◯したい」を実現している様子がうかがえる。

ある先生と話していて、他のクラスや他の年代を誘い合わせて遊び合い、作品に広がりが生まれるそうだ。
この園は、園庭にもしかけがたくさんある。

よくある派手な人工的遊具はない。園庭のほとんんどが、自然を利用したものばかりだ。

園庭にある子どもたちの遊び場になるであろう場所を歩いてみると、そこには、何か物語が生まれそうなしかけを感じた。

たとえば、大きなメタセコイヤの周りに、トンネルになっている生垣がある。

そこの生垣を抜けると、木造の小さな小屋にぶつかるのだ。

この園のきめ細かい部分にまで及ぶ子どもへの愛情を感ぜずにはいられなかった。
至る所に子どもの物語の途中が置かれているのだ。


年少さんの部屋から、布が外へ伸び、椅子に結びつけ、テントのようなものがある。それも作品の一部だ。

息子は、年少さんがダイナミックに作った新幹線や各種電車、部屋中に広がる線路や道路に、プラレール以上に夢中になっていた。
園庭にある「もりのおかしやさん」でも、自然のものを見立てながら、おかしやさんになりきる息子。

子どもたちの世界で創り出されたものは、子どもにとってとても魅力あるものとなって飛び込んでくるのだと感じた。
この園は、幼児期の本質的な部分を大切にしていると、実感として理解できた。
幼稚園でこのような生活を過ごしていると、

やはり「小学校は辛い場所になるよな。」と正直思った。


「学校は勉強をするところだから」と言う教師とよく出会ってきたし、今も同僚としている。

しかし、学校が幼児期で培ってきた子どもたちの生活、文脈を学校文化の都合で断ち切るようなことをし、規律ばかりの生活に追い込むことが果たして正解なのだろうか。
小学校側は、幼稚園、保育園などの取り組み、子ども観、人間観にもっともっと直向きに学びを求める必要があると、改めて感じた1日だった。

幼保小連携を謳った協議会が各学校で行われている。
幼稚園や保育園が小学校の準備施設に成り下がらないよう、お互いがフラットに、本音で子どもの本質的な部分を見つめ合いながら対話を重ね、連携を充実してもらいたい。

そういう思いが、ものすごい勢いで私の胸を揺れ動かす時間だった。

ありがたい1日だった。

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