「曲がるつもりじゃない角だったんだ」ー今更ながら'モテキ'を考える
今更ながら「モテキ①~④」(久保ミツロウ・著)について考えています。
何を今更考えているかというと、”夏樹ちゃん”についてです。
私の身近な友人には決していないタイプですが、現実にはいるらしいです。
最終巻で夏樹ちゃんはこんなことを幸世に言います。
「"本当の私"を理解したなんて思い込みだか、思い上がりが嫌なの そもそも知ってもらいたい”本当の私”なんて無いし」
「100人いたら100人の頭の中で見える私って全部違うのよ そんなの全部責任もてないわ」
初めて私が「モテキ」を読んだとき(5年くらい前)に気づかなかったけれど、30歳になった今、これってある意味「真理」に近いんじゃないかと思っています。「自分」と「他者」という唯一と言っていいくらい確かなものの、不確かな関係性について。
幸世も気づきます。
「夏樹ちゃんの中に俺はいない ただ目の前に存在するだけ」
本当の「自分」も、本当の「幸世くん」なんてどこにもなくて、ただの自分の目の前に見える部分だけが見えている、目の前にあるものが存在しているだけ。
大多数の人は、存在に価値とか意味とか過剰に見出そうとするけど、"夏樹ちゃん"はそうじゃない。とらわれていない。
私は色んなことに惑わされたり考えすぎたりとらわれたりするから、とらわれていない”夏樹ちゃん”がとても羨ましく感じる。でも、こわい。意味や価値を見出さないことに、考えすぎないことに、とらわれないことに、私はなぜか恐怖も感じてしまう。
「俺は君にとって 曲がるつもりじゃない角だったんだ」
人生で一番好きだった人にとって自分は「曲がるつもりじゃない角」だと気づいて認めた幸世は、本当にすごい。普通気づかない。むしろ気づきたくもない。
結局何が言いたいかというと "夏樹ちゃん"は、自分も他者もそれ以上でもそれ以下でもなく見ていて、それをなおかつ楽しんでいるという、これからに必要な人間なんじゃないかという想像でした。
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