それでも私は綴る
生きにくい世の中だ。
そんなことは、私が幼い頃からずっと感じてきた感情で分かりきっている。
昔から心の中で思った言葉達は、文章にしている。
これが私自身を救っている。
声に出しては誰かに伝えられなくて、誰にも言えないこの想いを無かったかのようにただ息をするのは、苦しい。
でも、文章だけは、私の心を見捨てなかった。
どんなに哀しいことが雨のように私に降り注いでも、その感情を綴ることで意味を見出す。生かしてやる。
この感情は無駄じゃない、きっと私を誰よりも大人にしていく。
そう思って、19年間、得体の知れない感情に意味を見出して生きてきた。
でも、最近、上手く文章を書けなくなる時がある。
「君の文章は、痛い。どうしてそんな暗い文章ばかりなの?」
そんな言葉を人に貰ったからだ。
知らない。私は私の心を救う為に文章を綴っている。
こうしないと、苦しいから。自分を愛せなくなるのが怖いから。
私の世界観を否定された時、哀しい想いが溢れてきた。
私の言葉は、この世界に存在してはならないの?
人はよく先入観で物事を決めつける。
物事の本質は、いつの間にか葬られ、かたちあるものにしか価値を見出せない人なんて山ほどいる。
人に理想像を押しつけて、その人の本質、努力は見ない。
そんな世界は、寂しくて堪らないんだ。
言葉は、思った以上に力をもつ。
誰かの言った一言で、いとも簡単に誰かの心に傷ができる。
全てをさらけ出していたはずの私の文章達は、
何処か居心地が悪そうにしていた。
自分の心に噓をついたからだ。
本来ならば私の心を飛び出して、生きるはずの言葉。
誰かに否定されたり、簡単に一言で片付けられるのが、怖くて
文章にするのが難しくなった。
私の言葉は外へでないで、怯えていた。
それはそれはハリネズミのように言葉を内に秘めた。
誰かを気にして本当の想いを思うように綴ることが出来なくなった時、
本当に生きづらいと思ってしまった。
行き場のない感情が私を一人にさせなかった、この世界では一人ぼっちだと言う孤独を感じた。
人前で自分の心を殺すことに慣れた私は、遂に鏡の中の私自身にさえも噓をついた。
そんな自分が半透明で、苦しかった。
誰かの瞳に映る私は、私ではない。
それは誰かが創り上げた、理想像でしかない。
貴方が見ている笑顔の私は、私ではない。
笑顔という仮面を被った憂いが、泣いていた。
自分の言葉をきれいごとで片付けないで。
誰にも理解されなくて、嘲笑いされても、
私は私を生きなければならない。
言葉が文章になったことに意味があって、万人受けするような文章にさせてたまるものかと、闘争心すら湧いてくる。
私の言葉を嫌う人だっている。文章は嫌いだと、見ることなく葬られることもある。
それでも私は、綴る。
私の言葉を自分自身で葬ることがないように。
私が生きていることを感じる為に。
誰かのなかで創造された私の理想像を、
木端微塵にするくらいの文章を綴りたい。
こうして私は今日もnoteを開いた。
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