昭和のgifted - 31 受け入れてもらうことの大切さ
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再三私はギフテッドかもしれなくて、そのせいで否定され続けた結果、自己肯定感の低い存在になったと書いてきたけれど、ぎりぎり前向きに生きていられるのは祖母がいてくれたお陰よのうな気がする。
昭和初期の頃、女は並べて結婚・出産するのが当たり前の時代、私の祖母はどうしても結婚したくなかったらしく、その逃げ道として家庭科教諭の免許取得に走ったそうだ。
時代にあらがう女性の代表的な存在だったのかもしれない。
個人としては時代に争ったとしたって歴史に名を刻むほどではなかった。が、自分が自分らしくあるために奔走した祖母の功績と、それからくる思慮は私にとっては今考えると有り難いものだった。
私が3歳の頃、祖母が洋裁をしている姿を見て、私も針仕事をしたがったらしい。
母はそんな危ないことさせられないと反対したそうだが、祖母は「自分がやりたいっていってることなんだからやらせればいい、自分でやるといってるのであれば気をちゃんと気をつけるだろう」といって私が針を持つことを許してくれた。
それから私は祖母を見て縫い物と編み物に興味を持った。そして3歳くらいから裁縫の真似事をやっていたそうだ。今でいう「キット」と言われるようなものを次々とやりまくっていた。
今思えば恐らく平面を立体化できる技術に興味を持っていたのかもしれない。ただただ祖母の真似事をして「針」と「系」で縫い繋げることで新しいなにかを生み出す体験を面白がっていたのだろう。
その後も母曰く、機嫌の良いときはなんの心配もなく、よく寝て育てやすかった(一人っ子当社比)癇癪をおこすことはあったけど、なんかよくわかんないけど物心つくまでは真綿を顔元にあてがえばすぐ寝てくれたし、物心ついたあとは祖母にいわれるがまま新聞紙を渡して気の済むまで破かせて発散させれば疲れ寝したから育てやすかったと言っていた。
私が昭和のgiftedなら、ばーちゃん明治のgiftedじゃね?と今だったら思うくらい祖母は私のことを理解してくれていたように思う。
その後、前にも書いたが私は小学校にあがってからいじめにあって登校拒否をする。
今思えば単純な「異質なものに対しての集団無視」なんだろうけど当時の私にしては理解ができなかった。
そうしてある日突然「学校に行きたくない」と駄々をこねたのだ。
当時母は慌てふためき「子供が学校を休みたがっている」と言って良いのかわからず欠席の理由をどう説明しようか悩んでいたところ、祖母が「学校に行きたくないって言ってるから休ませます、って言ってなにが悪いのが」的なことを言ってくれたらしい。
お陰で私は2、3日登校拒否をすることになった。
その数日間で「木春さんが学校に来たがらない理由について考えよう」なんて晒し首上のような日記の課題がだされたりしていたそうで、今思えば当時の学校教育どうかしてんな、を超えてるなって思うけど、私の登校拒否が2、3日程度で終わりを迎えたのは確実に祖母の言葉である。
出た杭は打たれるけど、出過ぎたら誰も打ってこない。
ギフテッドとかそういう概念がない時代、どれだけ私が救われただろうか。当時救われているなんて思いはなかったが、今思えば確実に祖母がいてくれなければ私はとっくに死んでいたかもしれない。
OK! ばーちゃん、どれだけ他の人に非難されようが、私が正しいと思って、私なりのロジックで生合成がつく理論を自覚できていればなにも問題ないってことだよね!
そこから私は目に見える範囲のトラブルを私なりのロジックで叩きのめせることは叩きのめして今日まで生きてきた。
その後祖母の人生を聞くと母が中学にあがった頃、旦那が死んで、だけども商家の出だったからか(だったとしても理屈がおいつかないけど)女ひとりで娘(母は3人姉妹)全員私立の女子大までの一貫校に進学ささて、なんなら50代の頃に大阪のそこそこ立地の良い場所に借地ではあるけれど4階建てのビル建設をやってのけて、私は当時はなんら理解できない、私にとっては当たり前の環境としてテナントオーナーとして事務所貸しの家賃収入で生計を得ている人の孫娘としてそだった。
取り繕うことが嫌いだった子供時代、「ガイショウさんが来てるからお茶持って行きなさい」と応接間に茶運びをさせられた。いいこのふりしないといけないのがわかっていてめちゃくちゃ嫌だった。
今思えば「ガイショウさん」=百貨店の外商担当の人がばぁちゃんになんか売りにきてたのか…と思うとあのばばぁやべぇなって思うし、その方にも不可解なことは多かった。
ばーちゃん、母が中学生の頃旦那が死んで女手ひとつで育て上げたっていうにはあまりにも環境が恵まれている気がしていたものの、私の小学生頃の記憶では大阪市立大学病院の先生という肩書きらしい人が頻繁に家に遊びにきていたのも不可解だ。
「遊びにきていた」というのが正確なものかはわからないが“ガイショウの人“と別に“イチダイの人“がそこそこ頻繁に我が家の応接間に出入りしてて私はお茶を運ばされた。
そんな祖母も私が中学を上がる頃に他界して、その後遺産相続でもめたりして住んでたビル追い出されてマジかよなんなの?という気持ちになりながら10代後半から20代の前半まで駆け抜けて、これまでの自分を俯瞰したときに「あのばばぁ何だったんだろ…」と思うようになった。
母には「おばあちゃんはゴッドマザーなの、あの人は特別だったかもしれないけと私たちは普通!」「私は祖母にあんたはなんの取り柄もないんだからって言われて何の疑問を持つことなくそうなんだ〜って思ってたからそんな私が産んだ子普通だと思うじゃん?」とか言われて私は育った。
偉大な祖母と「自分は普通。それどころか他の人と比べてどんくさい」と思って疑わない母。
たらればの話ではあるが、ばーちゃんがもう少し長めに生きていてくれてたら私はその分だけ思い悩まないですんだかもしれない。
今の時代の核家族社会には難しいかもしれないかれど、少なくとも母の判断がつかないときに介入してくれたばーちゃんのお陰で私は逞しく生きてこられたきがする。
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