昭和のgifted - 16 幸せな時間
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辛いとき、苦しいとき、怒れるとき、哀しいとき、私は文章を綴る。
ハングリー精神とはよくいうもので、感情が動くときクリエイティビティが発揮されることはおそらく大きい要因なのだろう。
なので私も孤独を感じるこの性質や負の感情を持てることこそが何かしらを生む才能に恵まれている因果だと思うようにしている。
しかして一方で幸せを感じるときも饒舌になる。
私の好きなものの話を聞いてもらえるとき、人はそんなに情熱をかけられるものがあって羨ましいといってくれる。
ただ天気が良くて、風が心地よくて、そんな日に写真を撮るだけだ世界は薔薇色に見えて時折泣きそうになる。
優しくされること、慈しまれること、感情が満ち足りたとき、ギフテッドは本当のクリエイティビティを発揮するのかもしれない。
人は不完全だから足りないものを求めて補い合おうとするのだとすると、ギフテッドは本来完全して満ち足りているから削られ不完全なものに変質させられているのだとしたらどうだろう?
私は私のことを完璧な人間だとは思ってはいない。それでも一般の人たちからすれば才能も容姿も申し分ない存在のようだ。
そういう点では他の人より完全に近いと見られるのだろう。
満ち足りているから人を僻むことなく、忌避することなく、羨むこともなく対等な存在として相対すことができるのかもしれない。
ただそれが世の中の人を脅かすのだとしたら私の存在理由は何なのだろう?
美味しいものを食べて、染み渡るような香り高い飲み物をいただき、笑顔で溢れる人たちに囲まれる。
幸せな時間にはヴェールがかかったような淡い風景が脳裏に刻まれ、ひとひらの心地よさに包まれる感覚を覚える。
完璧ではない私はただそうした安らぐ時間を求めて旅をする。
花に囲まれたときの瑞々しい香り
真新しい蜂蜜の瓶を開けたときの芳しい甘さ
上質なウィスキーを一呼吸おいて口にする瞬間
好きな人に触れたときの暖かな感触
人の優しさに触れたときのささやかな温もり
陽の陰りに映る誰かの一瞬を写真に収めるときに溢れる感情
あげればキリがないほどに、私は私の人生を悲観している場合ではないくらい幸せな瞬間を手にしている。
たったそれだけのことで幸せを感じるのであればおめでたい性分だという人はいるだろう。
だがしかし、私の感覚が鋭敏だからこそ些細なことに幸せを感じることができるのだとしたらそれは紛れもない私にとってのギフトだと受け取るしかない。
錬金術ではないけれど、何かを得るためには代償が必要だ。
日々生きる中で小さな幸せを尊いと思える感情を得るために、私はマイノリティとして曝される対価を支払っているのだとしたら一体何が幸せなのかわからなくなる。
ギフテッドが生きづらいのは、その強感覚からくる感受性が世の中の不幸や不運に曝されてしまうからだ。
だから一日でも世界が優しさで満たされてくれることを切に願う。
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