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昭和のgifted - 15 加害者になる私の冤罪

前回のお話しはこちら

私はよく寂しいとか、味方が欲しいとか、寄り添って欲しいと書いている。

そんなの自分に酔ってるだけだとか人はみな孤独だとかいう人もいるが、尊敬されて崇められる一方で妬まれ迫害され最後にには必ず孤立しなければならない人生を、あなたはどう想像できるだろう。

友達は友達だし、毎日会っていなくても遠くにいても繋がっていれると思えればそう孤独は感じないし、ひとりの時間だって誰しも必要で、そうやってみんな生きているとか言われてしまうと特にトラブルもなく、好かれることもなければ嫌われることもない人々はそうかもしれないけれど、私からしたら定期的に通り魔に襲われるいるのに誰も助けてくれない中で生きているようなものなので「みんなと同じ」と思うことができないのだ。

どんなことでも大抵すぐにできてしまうし、感性が鋭く評価もされる。けれど私にとっては評価されたくてやってることではないので遠くの人の評価より身近な人から褒められたり喜んでもらえたりする方が数倍嬉しい。

だけど評価されたくて何かをやっている人や特別な何者かになりたい人からすれば妬みの対象でしかないし、そうした人たちは努力しているにも関わらず圧倒的に超えられない壁にぶつかったときになりふり構わず攻撃を仕掛けてくる。

普通に振る舞っているだけなのに突然八つ当たりされたり、足を引っ張られたり、大人になる過程で「あ、この人可哀想な人なんだ」と理解できるようになり、ネガティブな感情を向けられ続けると自分自信もその感情に飲み込まれそうになるので距離をおくとか、相手にしないことも覚えた。

私のことを妬んだり僻んだりする人は自己防衛のために私に憧れているとか尊敬するといった感情に気づかないふりをして、攻撃性を増長させる。

子供が玩具を取り上げられて暴れることや、好きな人に振り向いてもらえなくてストーカー化するようなことと似た事象なのであるが人の心理として子供であれば寛容に、ストーカーであれば批判的に対応することを良いと思っているふしがある。

そういう潜在的な認識に弱い者は守るもの、強いものは守らなくて良いものという概念があるため、私からすれば通り魔に襲われたような気持ちになる事象も「あなたは才能があるから」「あたなの方が精神的に大人にんだから」と折れたり我慢させられることが多い。

私が強いなどと誰が決めたんだ?

才能があって美人で誰からも好かれ、評価されている人間は自己肯定感が高いと誰が決めた?
そしてそういうギフトを持つ人は妬まれても仕方ないと誰が許した?

それでも世間は私を妬んだり僻んだりする人のことをまた暴れられても大変だしとか可哀想だからという理由で気遣う。

私の言ってることは正しい、だから間違ってないって自信を持って高見の見物してれば良いんだよ。ただ、自分たちの立場や関係性上、敵味方なんて分け方でどちらかにつくとかできないし、わかってくれるよね?
といって加害者の方に気を使うのだ。

誰も私を気遣ってはくれなかった。最近では多様性のあり方とか、認知の幅が広くもてる人たちが増えてきているからコミュニティの中で私を軸に勢力が二分するようなことがあったとき、きちんと味方だと表明してくれる人も増えた。

だけど私の正しさを肯定して味方だと表明することには恐らくかなり胆力がいる。
私の正しさを肯定して味方になることで弱い者いじめやクーデターに加担するような「弱きを守る」という倫理観に反するからだ。

だから私には味方がいない。

誰も助けてくれない。

私は私の努力で今を生きている。
例え誰にも寄り添ってもらえなくても私にしかできないことがあるからだ。

私という人間がいるということを残すこと。
可能であれば私なら理解してもらえるかもしれない、と思ってくれる人の話を聞くこと。

事実本当に私にしかできないことがあるから私はギフテッドなのかもしれない。

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