昭和のgifted - 61 才能の磨き方
前回のお話しはこちら
最近ADHDのJKとSNS経由で知り合うことがあって、なんとなくなついてくれているのでたまにリアルで会ったりしている。
そんな彼女がSNSでこんなことを言っていた。
突っ込むべきかスルーするべきか、一瞬悩んだんだけど、思わずこう突っ込んでいた。
「ポジティブに捉えたい人たちが考えだした結果論だから磨かないと開花しないし、そのままほっとくと才能なくても努力してる人の方に埋もれちゃうよ。」と。
ひょっとしたら娘くらいの歳の差があるから聞いていられるだけかもしれないが、とにかく彼女は自分の好きなことの話をしだすと止まらない。(私も自重しろだけど)
なんなら昨今のラベリングがあれば主張して良い風潮もあってか全力でADHDであることを推してくる。
私もその傾向の自覚があるからちゃんと聞いてあげられる歳にもなっていて、多少思い込みの激しさやロジックのあやふやさに困ることはあるものの、ちゃんとお薬も飲んでいろいろ模索しているようなので時間があれば話を聞く様にしている。
私自身、ラベリングがあれば開き直って良いという風潮は(自分もしてはいるけれど)あまり好きではなく、昔から「自分AB型だから〜」とか「自分はこういうタイプで〜」と言ってくる人には「だからどうした。うるせぇ黙れ。」と思っていた。
でも、「才能を磨くということがどう言うことかわからない」「どうやったら磨けるのかもわからない」と言う彼女に「じゃあ一緒に磨こうよ!」と言うと「本当ですか!お願いします!」と返ってきた。
この「お願いします!」と言う言葉に、私は彼女が自分の「軸」を求めているように感じた。ADHDという単なるラベリングではカバーできない不安定さを「才能」を認識することで補填したいと思っているのだと。
下手なラベリングするからこういう弊害がおこる。本質的な話をすると、人間誰しもなにかしらの才能を持っているんだから根本的な拠り所の作り方を提案できなければカウンセリングや支援も成り立たないと思うのだが、現状の資格試験で得られる知識ではそこまで至らないのがせきのやまなのだろう。
私が思う「才能」は「特性」だ。
前に闇堕ちちゃんが「秀才は1%の才能と99%の努力というけれど、自分にも1%くらい才能があれば頑張れるのに…」と言ったとき、自分ではないかもしれないと思い込んでいる才能に対して99%も努力しようとするのであれば、それは「努力する才能がある」と私は思った。
私は自分の興味のあることには没入できるが、それ以外はてんでできない。
いわゆる暗記系のお勉強もできないし、忖度もできない。
「興味がなくとも、結果を出すために暗記ができる」というのは私からすれば立派な才能だ。
満員電車に揺られて定時から定時、会社に出勤できるのも私にはない才能だ。
馬鹿にしている訳ではなく、本当に私自身はできなかったから社会からドロップアウトしてなんの補償も支援もない個人事業主の独身貴族だ。
多くの人が「才能がある」とラベリングするのは自分には発想もできないことや実行困難と思っていることを容易くできる人に対してする行為なのだから、ギフテッドやADHDの人が当たり前と思っていること=「すごい」に置き換えられる。
ただこの「すごい才能」と感じる普通のことを当たり前にできる人の分母が多いからこそ、ギフテッドやADHDの人たちは「目に見えてわかりやすい才能がないのでは」と感じて自分の存在意義を疑問視してしまう。
「才能」なんて所詮「特性」なんだから誰しも持ってる。
しかし「才能」を「才能」たらしめるのは泥臭くも「努力」や「継続」なのだ。
もともと何かしらの分野で秀でていて「特性」を発揮したとしても、それがたった1回のことだったら「一発屋」と言われて終わりである。
一発屋に関して世間の目は厳しい。一発でも当たりをあてたのだからおおよそすごいのであろう、と推し量ってはくれるもののそれ以上の評価はされない。
ずっと当たり続けること。
その経緯と結果を見て人は初めて「才能がある」と断言できる。
「夢は諦めなければ叶う」
という陳腐な言葉は嫌いだが、諦めなければ叶うことはわりとある。
ただ、「夢ー!!!」って掲げて突っ走らせるのはどうかと思う。兎と亀じゃないけれど、兎が本気出したらこてんぱんにやられるし、兎もうかうかしてると亀にしてやられる。
前にも書いたかもしれない、美大卒生の「写真選考の学生とかはいい写真を撮るために構図とかノウハウとかいろいろ勉強してるのに木春さんみたいな人が現れると一瞬で打ちのめされる」という言葉を定期的に思い起こす。
私からしたら基礎もきちんと学んでいない私が写真を生業に仕事をもらっていて大丈夫か?という不安から後追いで勉強したり、努力してきた人たちにも納得してもらえる成果を見せたいという気持ちがあるからそれなりに努力はしているし、独自の工夫などもやっている。(好き好んでだけど)
こっちとしては気ままに写真撮ってるだけなので「打ちのめされる」とか言われても「なんかすまん」としか言いようがないのだけれど、才能を磨くと言うことは「評価されやすい差分を埋める」行為と「自分できちんと認識する」ことなのではないかと思う。
私に関しては空間認識能力や表現力、発想力みたいな部分が他の人より秀でていると言われることが多いが、それを理解して肯定してくれる人は一握りである。
一握りの人でも認めてくれるのだからそれは自分の才能として受け入れれば良い。
誰かに言われたことでも良い。
よくスポーツ選手とかメディアで取り上げられるひとが「天才」と言われ、わかりやすい天才像としてフィーチャリングされるが、この事象については、もちろんどこか特異的に秀でた才能があった可能性があることが大前提になる上でもそれぞれその人が「これしかない」と信じ、努力を続けた結果の産物のような気がしている。
私からすれば「これしかない」と思えることは羨ましく思うほどのことなのだけれども、これを口外するとわりとの確率で叩かれるのでnote以外ではあまり言えない。(忖度できないからペロっと言って周囲を凍りつかせることはあるけれど)
才能なんて誰しもが何かしら持っている。
その評価を自分自信で受け入れるだけで満足できるのか、他者から認められたいのか、他者から認められる場合身近な人たちに認められるだけで満足できるのか、不特定多数の人に広く認められないと満足できないのか、どこを着地点にするかで努力の方向性が変化するだけの話だ。
ギフテッドはそれなりにいろんな対応力があるから「これしかない」と強く思うことが難しいことが多い気がする。
「自分が好きなこと」と「周囲が認めてくれること」この2つが合致したとき、個々人が自分の才能に気づくことができるような気がするから、「自分にはできない」と思うことを積極的にできてしまう相手にアナウンスしてあげることが才能を磨くきっかけ作りになるのかもしれない。
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