変化諸々

最近の自分の変化のスピードには、自分でも驚いている。
それはもう色んな変化が生じまくっているのだが、今日記録しておきたいのは、少し前の自分は「余計な気の回し」が多かったということだ。なぜそうなるかというと、「相手をコントロールしよう」とする意識が強かったというのがひとつの理由である。

自分の思う通りに事が運ばないと不安だと、言葉数が多くなるんである。その言葉でさえ、選んで発せられているものではあるので、その背景には更に大量の思考が存在するんである。

「【自分が】相手にこの想いを届けたいから」言葉を熟考するのと、「【相手から】こう思われる/思われないと不安だから」するそれとは、使っているエネルギーの種類が異なる。後者は当たり前に、疲弊する。

少しずつではあるが、最近の自分は、今自分がしようとしているアクションが、前者なのか後者なのかに自覚的になりつつあり、可能な限り前者で動こうとしている、といった感じである。

そもそも人との繋がりにおいて、何かが過剰にウエットであったという側面もある。以前の私は特に、「語り合う」ことで人と繋がろうとする側面があったように思う。
今の私は、「一緒にいる時間の充実度」で、人との信頼は積み重なっていくものだと思うようになった。信頼が積み重なった人には、安心を感じるものである。

少し話が飛ぶが、その「信頼・安心」は、時間をかけて懐柔しにかかってくる「ロマンス詐欺」や「(ホストの)育て」とは、何が違うのだろうか。前者は「語り合い」、後者は「実際に楽しい時間を共有する」。

昔の私は、詐欺にこそひっかからなかったものの、恋愛依存の共依存だったように思う。今の自分が上記にひっかからないとするならば、自分の生き方の前提に、「寂しくない」というクッションが存在しているのが大きな違いである気がする。「寂しくない」というのは、「孤独でも構わない」ということと同義である。

過去の共依存の人間関係は、非常に不快であった。いくら相手が言葉でねじ伏せようとしてきても、発しているエネルギーの矛盾までは深いところでは誤魔化せない。だが毒親育ち故、諸々の生きづらさがMAXだった自分の脳は、その不快を快と勘違いし、エゴの見せるドラマにずぶずぶとはまっていった。

人生に希望を強く求めているとき、本当に照らされるのを待っているのは絶望の方である。一刻も早く他者と強く繋がりたいと願うとき、先に手を差し伸べられるのを待っているのは孤独の方である。
人生から、片面だけを都合よくピックアップすることは不可能、というか、不自然なのである。不自然なことは、不快なはずである。

不快を感じたら、離れれば良いだけである。なぜそれができるのか。
「ひとりでも十分に幸せ」だからである。






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