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格差は昔からあった

 最近、『体験格差』と言う本を読んで改めて思ったのが、格差というものは昔からあったという事。体験できない人やできなかった人から見れば、私は体験できた人(幸せ者)だからそんな事を言うのだろうと揶揄と侮蔑の視線を向けるのだろうが、やりたくもないのに体験させられた事だって多くあるのだ。何もしないと無気力の原因になるという人もいるが、無理にやらされたから反発する原因になる事もあるのだ。おまけにあの手の人達は、子供達に体験してほしいと言いながら、その実は体験させてやろう。体験させてやっているんだという思いが見え隠れするので信用できない。

 教育もそうで、教育を受ける権利があるのに高校や大学に行けないの可哀想というが、教育を受ける権利というのは「その能力に応じて等しく」と憲法に明記されているのは無視しているし、学区制廃止といえば真っ先に反対するのがこの手の人達。子供達が教育を受ける権利は何処へ行ったのかと聞き返したくなる。それに今や高校大学共にレベルの低いところが増えているので、バカに門戸を開かれすぎているのだ。勉強できるのに高校大学へ行けないのは不幸かも知れないが、大して勉強できないのに高校大学へ行く事は本当に幸福で格差の解消につながっているのだろうか?非常に疑問である。

 そこで思ったのが、格差は昔からあったという事。昔は、「ウチは貧乏で金がない」と公然と言える健全さがあったので、子供の方は不服ながらも理解したとは言わないが受け入れた。そんな子供を助ける人も少なからずやいた。それがいい方向につながったかどうかは正直分からない。ところが今ではその「格差」を金科玉条の如く掲げて、飯の種にしようとする人達が現れたから性質が悪い。表面上反対しにくい話題で倫理観を強要してゆすりたかりをしているようにしか見えない。ただ、貧乏をタテにゆすりたかりをする人も昔から多くいたので、ゆすりたかりの仲介業者ができたという見方もできる。

 それでも格差は問題で貧乏な家の子供を救いたいという人がいるなら、どこかのゆすりたかりをしている団体に寄付するのではなく、自分の金で近所の貧乏な家の子供を助けてはどうだろう?よくいるのが、外国の貧しい人の関心はあっても、近所の貧乏人は平気で差別する人だが、助けるなら近所の貧乏人からにしよう。何をするのも労働以外は金がかかりすぎるのもおかしな話なのは認めるが。

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