高校生時代 東日本大震災のときの僕 II
友人の家にはどれくらいお邪魔させてもらっただろう。2, 3日くらいだったか。でも、当時はとてつもなく長く感じた。
友人のご両親が僕の実家に連絡をとってくれたらしく、叔父が車で迎えに来てくれた。震災から約3日経ってやっと家族に会えたことが何より嬉しかった。叔父の目も潤んでいるような気がした。
友人2人も連れて、叔父の運転する車で地元に戻ることになった。
道中、窓の外を見ていると、景色が徐々に変わっていくのを感じた。
川に浮かぶ家の破片や家具。
水浸しになった田んぼ。
変色した道路。
変わり果てた町の姿が現れた。
「海沿いの方はもっと大変なことになってる」
落ち着きすぎた叔父の声に不安が増していった。
帰ると、実家の中はほとんど変わってなかった。
この数日間で、叔父と弟が倒れた家具や散乱した物を必死に片付けていた。
実家に荷物を置き、僕は友人たちと共に、山を超えた先にある沿岸地域を見に行くことにした。沿岸地域は、僕の実家のある地区よりも栄えていて、卒業した小学校、中学校、高校生になってから使うようになった駅、よくメンチカツを買っていたお肉屋さん、野球の練習をした体育館、グラウンド、小中学校の同級生たちの家々。想い出が染み込んだたくさんの場所があった。
はずだった。
山を超えた先にある小学校には多くの避難した人たちがいた。
校舎の一階はガラスが割れ、校舎内には瓦礫や土砂が流れ込んでいた。校庭には瓦礫の山。水を存分に吸った土でぬかるんでいた。
校舎の中で同級生に出会った。案内されるがままに屋上へと向かった。
屋上から沿岸地域を見渡すと、見通せるはずのなかった場所がはっきりと目に入ってきた。建物や木々が津波によって流されたからだ。
世紀末。もう、終わりだと思った。
それからは電気もなく、水道も使えない生活を送った(幸いにもプロパンガスは使えた)。頭は数日にいっぺん溜めていた水で洗うようにし、トイレは田んぼの水を使った。僕の実家には沿岸地域で被災した知人たちが集まっていて、数週間一緒に生活を送った。
不便な生活、亡くなった方の連絡、人間関係のトラブル、ストレス...色々あった。
被災者の方には家を流され、財産も家族も流された人たちがいる。自分自身も流され、なんとか間一髪、電柱につかまって助かった友人もいる。
震災の経験は今でも強く自分の中にある。
震災は少なからず、僕を、僕の人生を変えた。
「何ができるんだ?俺に」
そんなことを考えるようになっていった。
高校生時代後半につづく
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p.s. 合掌
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