見出し画像

絶対なんてないんだと思う

父の介護をしていた7年の間、
それはいい時もあれば悪い時もあったのだけれど、
骨身に染みたのは、
「知らないことがわたくしを疲れさせる」という事実だった。

知らない、判らないことが
不安を呼んで
わたくしに、ストレスを持ってくる。
運んでくる。

たった一人の人間を、自宅で介護することなんて
そんなに大層なことでもないだろうと、
ただ、体力だけは温存しておかなくちゃね、なんて
どこかで高をくくって考えていた、あの頃のわたくし。

突然の救急搬送、入院があったり、病院から呼び出しを受けたり、
父が予想外の反応を見せたり、
ドクター10人以上に取り囲まれて、あれこれ言われたりすると
(父は難病指定を受けていたので、色々チームを組まれて
説明を受けたり、了解をとられたりしたのだった。)

どうしたら、一番いいのか
一番いい結果を持ってこられるのか

それが、判らない。
その公式が、見えない。

その事が大きなストレスとなった。

そうしてストレスを抱えたわたくしは
枕に顔を押し当てて
「あ”~~~~~~~~っっっ!!!!」って
声を出して叫んでいたりしたよ。

父があんまり、判らないことを言うものだから
思わず売り言葉に買い言葉になってしまったり、
振り上げた自分の手に、慄いたことだってある。

父を大事だと思えば思うほど、「ハッピィエンド」を思うから
願うから、そうではない混乱した現実は、わたくしを打ちのめした。

ああ、でも
そもそも
「ハッピィエンド」って、何だろう??

わたくしは、どんな小さなことでも、終わらせたくなかった。
なかったんだ。

そんな日々を支えてくれたのは、同じ状況を経験してきた人。
わたくしを、笑わせてくれた人。

わたくしの中の、どす黒いものを少しでも軽くしてくれるべく、
笑いに変えてくれた日々のことを、
わたくしは、今でも大きな感謝と共に思い出す。

笑うって救いだ。
あの頃は無理矢理、すべての精神力を使って
力づくで笑って、泣いていたなあ。

一番怖かったのは、「無表情」の自分だった。

そうしてまた

「そういう時、うちでは、こうしていたよ。」
「私はこうやったよ。」

それは知らない事、判らないことを知るための、確かな手掛かりになった。
わたくしは、本当に随分、それで救われたのだ。

結局のところ、泣いても笑っても愚痴っても、
自分が向き合うしかない。
自分が選択したから。
そう思う事が、わたくしのプライドの拠り所だったから。
その事実だけからは、逃げない。
逃げられない。
そう、思っていた。

だから父が亡くなった後、
わたくしは、自分の経験が、わたくしを助けてくれた人達の
経験談と同じように、誰かの役に立つといいなあと、思った。

そう思って、その気持ちは、今も抱えては、いるけれど

でもね。
あの日々を助けてくれた友人の一人が言ってくれた言葉が忘れられない。

彼女は、自宅介護10年という、経験者。

「聞かれたことには、全力で応えるけれど
でもねえ、人によって、色々あるものねえ。
だから、これからは
これこれこうだって
「言いきらないように」気を付けなくちゃって思ってる。」

ああ、そうかって思った。

わたくしの7年は、わたくしにとって、とてもとても重いものだったから
大きな経験だったから、ついつい、同じ状況の人の話を聞くと、
断定的になりがち、話がち、そして判定しがち。

だけれど。

つまりわたくしは、7年間の経験の元、知らなかったことを、
どこか判ったつもりになっているのだけれど

経験って基準にはなるけど、でも絶対的なものじゃない。
そういうことなんだ。

そして
そのことを、わたくしは、忘れないようにしたい。

永遠なんてない。
明日も今日と同じだって限らない。
当たり前のことだ。

だから、謙虚にならなくちゃいけないなって思う。

こんなわたくしでも。

だからといって、物わかりの良いステキな良い子になんてならないし、
なれる訳もない。

うん。
そんな奴が、書いている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?