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【書評】これは、廻天の物語である ――燦然のソウルスピナ(1)

はじめに

読み終えて、最初に覚えたのは無力感だった。

暗澹たる夜から始まり、《ちから》によって一旦の区切りがつけられたこの物語は、自分の心を完膚なきなまでにボコボコにしてくれた。

展開の衝撃性や、感動の話ではない。ワールドエンデという一つの世界に生きる人々の力強さと、それゆえにくっきりと映る、世界そのものの昏い影に、打ちひしがれたのだ。一言で言えばしんどかった。大いに体力を使った。

もちろん、ハイファンタジーと銘打たれた(ハイ・ローの区別に一家言ある方はいようが、この場ではひとまずさておく)幻想譚はそれ自体が重厚であるし、物語の加速感や衝撃も筆舌に尽くしがたい。ラノベ然としたラブコメが始まったかと思えば、民主主義を「荒唐無稽な絵空事」「狂気の沙汰」と評する厳然たる貴族社会が描かれ、ついには無数の死者がはびこる人外魔境を《スピンドル》の輝きが照らし出す。そんなめくるめく鮮烈さも魅力的だ。

だが、この場では、燦然のソウルスピナという物語の骨子とも言える《ちから》という概念について取り上げたい。

序:《ちから》の物語

本書において頻出する単語のうちに《ねがい》《ちから》がある。《ねがい》は単なる願望という意味だけでなく、願望を叶えるために万物を《そうするちから》であると表現される。すなわち、《ねがい》は《ちから》だ。一方で《ちから》という言葉は、意志の力・超常の異能を発現させる《スピンドル》という力・あるいはより抽象的な精神力……それら全てを包括する、非常に概念的な言葉だ。

つまり燦然のソウルスピナとは、《ちから》の物語である。《スピンドル》によって生まれる異能や、それを収束する役割を持った聖遺物(フォーカスと呼ばれる)のような分かりやすい超常性はもちろん、欲望や情愛といった形なき想念を含め、多種多様な《ちから》が荒れ狂い、ぶつかり合い、悲劇を生む。

はっきりいって作中で起こることの多くは悲劇である。要所要所はさておき、全体像を見ればけして明るい話ではない。多くの人が死に、多くのものが喪われ、悔恨や苦悶の涙が流れる。しかしそれは、《ちから》が振るわれたなら起きるべくして起きる結果だ。アシュレ、シオン、イズマという三人の主役は、それを理解し、覚悟したうえでなお《ちから》を振るう。その姿は勇猛で、特にひどく脆い。

もちろん、立ち向かうのは三人だけではない。アシュレの幼馴染であるユーニスや、彼を慕う尼僧のアルマ、あるいは若年にして枢機卿の地位に至った才女レダといった美少女たちも、それぞれの運命に直面し、苛まれながらなお進もうとする。その姿は美しく、いたいけで、悲壮ですらある。《スピンドル能力者》足り得ぬ彼女らの《ちから》は、ひとえにアシュレへの愛である。愛によって物語は大きく動く――良くも悪くも。

これはアシュレたちが挑む大いなる敵についても同様である。悪役たる彼らにも、《ちから》を振るうべき理由・目的があり、それはとても強大で堅固なものだ。ゆえにこそ、先に述べた通りの悲劇が生まれる。若き英雄ですら膝を屈しかけるほどの……だが彼らは止まらない。彼らにも、相応の《ちから》があるのだから。


余談だが、本書で描かれる範囲でのレダの出番はとても少ない。彼女が背負うもの、その内面については前日譚「ジェリダルの魔物」に詳しいため、ぜひこちらをご一読いただきたい。ただし、これには以下のような注意喚起がなされている。



俺は選択肢2と3の中間(書籍をある程度読んでから当該エピソードを読破した)を取った。全てが揺らいだ。あるキャラに対する認識が根底から覆され、その行為と結果について某氏と意見がぶつかった。この顛末については、また別のテキストで触れる予定だ。

ともあれ、作者自らをして「読者へのテロル」と評される仕掛けは、なんと無料で味わえるのだ。本テキストの通読を一時中断してでも、ぜひ挑んでもらいたい。


破:《ちから》は書を飛び越えて

ならばなぜ「廻天」を銘打ったのか、これには三つの理由がある。一つ目は、本書の固有概念《スピンドル》と、燦然のソウルスピナの物語構造に由来する。

順番が前後したが、まずは《スピンドル》について簡単に触れたい。これは異能の源であり、「意志の《ちから》」と表現される。多くの作品における類似例が示すように、万人が扱えるものではない。発現は先天的、目覚めたとしても命を喪う可能性があり、それを得てようやく《敵》と戦うスタートラインに立てる程度。なぜなら《敵》ら――「世界の規矩に寄生するものども」と表現される――は、子供が遊ぶ砂場のように世界の法則を書き換える。《スピンドル能力者》でなければ、そこに踏み込むことすら出来ないのだ。ゆえに、《スピンドル能力者》は、《敵》と同じ陰の側に立つバケモノとも言える。

回転軸を意味するその名の通り、《スピンドル》は回転のイメージを伴って描写される。そこに意志の《ちから》を注ぐことは、「トルクを与える」と。特筆すべきは、《スピンドル》によって切り開く世界の裏側、永遠の黄昏というべきそれを、ある人物は「非公式の世界」と表現する点だ。

世界の理すら書き換える人外の王、一騎が万軍を薙ぎ払う超常の力――それはファンタジーという、我々からすれば幻想の物語のなかですら「おとぎ話」「虚構」と評される。フィクションという虚構のなかで、アシュレはなお強大な虚構に挑む。彼らの意志が《スピンドル》にトルクを与える時、応じるように、燦然のソウルスピナという物語そのものが加速する。《スピンドル》とは単なる異能力ではない、現実にいる我々にすら作用する大いなる回転力なのだ。

アシュレを除くのこり二人の主人公、夜魔姫シオンと土蜘蛛イズマもまた異能を振るう。だが彼らに関して触れるべきは、寿命という軛から解き放たれた人外という点だろう。ふたりは老いから切り離されているがゆえに、過去をとめどなく蓄積していく。それは作中でも示されている通り、一種の呪いだ。忘れ得ぬ過去は無限の悔悟をもたらし、悲痛はいかなる強大な魂をも腐らせる。なによりも、過去という縦糸は大いにねじれ、因縁を生みだす。若き英雄アシュレが意志の《ちから》を以て進むように、彼らもまた、過去を糧に過去へと挑む。聖剣:ローズ・アブソリュートの刃が咲き誇るとき、そこにはまた一つの回転が生まれている。

《ちから》は《フォーカス》によって収束する。螺旋が向かう先は、世界の規矩そのものである。それは「世界の規矩に寄生する怪物ども」たる《敵》であり、同時に本書の根幹を貫く「この物語はフィクションである」という絶対的なルールでもある。登場人物すべての《ちから》が振るわれる瞬間、俺は彼らの声なき叫びを聞いているような気持ちになる。

「我々は虚構の存在ではない。たしかにここにあるのだ」

そんな、文字に収まりきらないほどの《ちから》に満ちた声を。


急:回転は廻天に至るべし

ふたつめの理由は、《ねがい》に因る。作中の誰かではなく、俺自身の《ねがい》である。

すなわち――報われてくれと。

朋友ルグィンを前に立てた夜姫シオンの誓いが。若き聖騎士アシュレの懊悩と決意が。描くも記すも憚られる"もの"に挑む土蜘蛛イズマの抵抗が、どうか報われてほしいという、読者としての《ねがい》だ。

無論、主人公格たる彼らだけではない。アシュレの従者ユーニスの身勝手な愛(誤解を招きかねないが、あえてこう表現する)が、同じく彼を慕う聖職者アルマの献身が、枢機卿という立場ゆえに生まれたコンフリクトに呻くレダのが、アシュレに従う騎士たち、法王マジェスト六世、アシュレの父グレイの親情、そしてネタバレのため書けない彼や彼らのあらゆる苦痛、悔悟、無念……作中に描かれるものの殆ど(全てではない。省かれたものが何であるかは、お読みになればわかるだろう)が何らかの形で報われてほしい、という祈りである。

だが、祈りに《ちから》はない。祈りは《ねがい》ではないからだ。燦然のソウルスピナは、それを言葉ではっきりと、あるいはそれとわからぬよう暗然と示している。ならば、俺に出来ることは何か……それを考えた結果が、このテキストだ。本書の物語が、ワールドエンデという確かにそこにある「虚構」を映し出す窓であるように、文章によって祈りを《ねがい》に変えている。

思えば、この物語を書/描かれたおふたりも、そう決めて筆を執ったのではないか。益体もない考えかもしれないが、それほどの熱意を俺は感じた。約350ページ、若き英雄の旅立ちに至るまでのなかで、彼らはしっかりとそこに活きている。リアリティや納得の問題ではない、そうとしか言い切れぬ「厚み」があるのだ。それを表現するに、《ちから》という以外の言葉を俺は持たない。

廻天とは、「天下の形勢を一変させること。また、衰えた勢いをもり返すこと」とある。商業出版という大きなステージを経た本書は、おそらくそのどちらにも該当しうる資格とポテンシャルを得ている。本書をこれから読む人(それがあなたであると俺は願っている)が、彼らの《ちから》に打ちのめされ、暗く無慈悲なワールドエンデの黄昏にコテンパンにされることこそ俺の《ねがい》だ。そのためには、「合間合間に入るお色気が割とエロい」だとか、「《スピンドル》を用いた戦闘は地に足ついた感じでかっこいい」だとか、「メインヒロインのシオン姫がかわいい」みたいな、分かりやすい要素要素の紹介だけではとても物足りないのだ――誰よりも俺自身が。

さいごに:三つめの理由

ここまで読んでいただいたことに感謝を。そして、今やあなたにも、彼らと同じ《ちから》があることを教えたい。あるいは、もうあなたはそれを振るったあとかもしれない。

全ては始まったばかり。「燦然のソウルスピナ」という回転は、今まさに新たなトルクを与えられたところなのだ。……わかりづらい? では言おう。グダグダ言わずに本書を買え、そして読め。金は天下の「回りもの」、これぞまさしく俺たちの振るえる唯一無二の《ちから》である。

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