ハイハイせずとも人は歩けるようになる [人生はクモの巣]
前回の記事で書けなかった小話を書こうと思う。前の記事を読まなくても全く問題無いので、そのまま読んでいただきたい。
ハイハイをしたことがない民族
人類学者のデイヴィッド・トレーサーはパプアニューギニアの先住民アウ族の調査を行っているとき、奇妙な事実に気づいた。彼は20年間にわたりアウ族を観察したが、赤ん坊がハイハイする姿をみたことがなかった。この事実は、西洋科学で正常とされてきた歩行までの発達過程と大きく異なっていた。
この理由は、赤ん坊を地面に接触させると致命的な病気や寄生虫に感染しやすいことを、アウ族の大人が知っていたためだ。そのため、アウ族の赤ん坊は、大半の時間を体に身に付ける布の中で縦抱きのまま過ごす。西洋では床が綺麗なため、ハイハイが発達段階に必要不可欠であるという思い込みに誰も疑問を抱かなかったのだ。
発達過程は環境による制約を受けており、ハイハイは人間に先天的に備わっていたプロセスでは無かったのだ。 ※1
道は一本ではなく、網の目状になっている。
この話から学べることは、ゴールに至る道は1つではないという教訓だ。
我々は日々、「食えるスキルを身に着けねば」とか、「もっとマッチョにならねば」などの目標を掲げ、色々なタスクに追われている。例えば、目標を叶えるためにプログラミングを勉強したり、資格の勉強したりする。あるいは、有料のジム通ったり、プロテインを飲んだりする。
しかし、我々は方法が複数存在すること忘れがちだ。先ほどの例は全て筆者が挫折した経験だ。プログラミングは参考書で勉強したけど、徐々に退屈に感じ、基礎だけ学んで辞めてしまった。資格はとりあえずITパスポートを取り、他にも色々と取得するつもりだったけど、段々その無意味さに気付いて辞めてしまった。
こういった挫折は、むしろ良いことだと筆者は考えている。自分に合わない方法が分かるからだ。どうやら筆者は、自室の机で毎日コツコツが苦手のようだ。地道な反復学習も苦手である。
逆に、普段と異なる環境では高い集中力を発揮する。例えば、研究室やカフェなどで常に新しい知識を学ぶようにすると挫折が少ない。要するに、常に好奇心を刺激する必要があるのだ。
あるいは、自室で文章を書くことも得意だ。文章を書くことで学んだ知識が整理され、使える形に成形されていく感覚がある。noteを書き始めたことで、思いついたことはすぐにメモを取るようになった。
また、スキル系の類は必要に迫られたときに短期集中で学ぶ方が良さそうだ。プログラミングについても研究の過程で必要になることが度々あり、その都度必要なことを学んでいった。英語や読書も1日◯ページと計画してもたぶん続かないので、必要なときに必要なだけ勉強すればいいと思っている。
赤ちゃんが歩行するまでの過程にハイハイが必要無かったように、必要だと思っていたことがそこまで必要では無かったという事例は、他にもたくさんあるだろう。
人生にハシゴなんて存在しない。道はクモの巣のように網み目状に張り巡らされており、私たちは常に新しい道を切り開いている。
そして、今の道が自分に合っているかどうかを判断するために必要なことが、MBTI(性格心理学)や過去の経験の棚卸しといった、「自己省察」なのである。
と、筆者は考えている。
そもそも、一本道なんてつまらない。
1つに拘わらず、色々な道を歩みたいものだ。
完
−−−
ところで、筆者は工学部の機械系で金属材料を専門とし、大学で院を含めて六年間学んだ。
専門は材料であると堂々と宣言しているが、ぶっちゃけ筆者は優等生というわけではない。
実は大学2年生のとき、「材料概論」という科目を落単した。「〜学」というような小難しい学問ではなく、しっかり「概論」を落単したのだ。
いや、少しだけ言い訳を聞いて欲しい。そのとき、同時期に「材料力学」というやや重たい試験科目もあったのだ。そこで、材料力学と材料概論を八対ニくらいの割合で学習リソースを計画的に分散投資し、試験対策した結果…
両方見事に落単した。あろうことか、対策を分散させることでどちらも中途半端となり、簡単な概論だけでなく本命の重たい科目も落としたのだ。本末転倒というか、これでは目も当てられない。
それでも最終的に成績は中の上に収まり、3月、なんとか無事に大学院を卒業できた。落単した当時は留年の危機にさらされたが、意外とどうにかなるものである。
やはり、卒業までの道も1つではなさそうだ。
知らんけど。
参考図書
※1
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