【血縁関係シリーズ②】戦国時代と幕末にそれぞれ出てくる島津家のつながり
戦国時代には、戦国最強と言われた島津4兄弟という呼ばれ方で、島津氏が歴史の舞台に登場します。
戦国時代の島津家
島津4兄弟は、長男 島津義久(1533~1611)
次男 島津義弘(1535~1619)
三男 島津歳久(1537~1592)
四男 島津家久(1547~1587)
です。
この4人兄弟はとても団結力が強く、兄弟喧嘩をしたことがなかったと言われています。
関ケ原の戦いの後の処理では、島津家は土地を減らされずそのまま薩摩藩が成立しました。
幕末の島津家
そこから約250年後の幕末の時期に島津斉彬(1809~1858)という人物が出てきます。
島津斉彬は薩摩藩第11代藩主として活躍し、藩の近代化を推進した人物です。また幕政にも関与しました。幕末の四賢候と呼ばれるうちの1人です。
斉彬の死後は、斉彬の弟にあたる島津久光(1817~1887)という人物が藩の実権を握り、幕府に対して改革を要求するなどの幕政にも関与しました。
この改革が文久の改革と呼ばれるものです。
久光自身は藩主になったことは一度もなく、久光の息子が藩主でした。
久光は藩主の父として実権を握ったということになります。
幕末に登場する島津家の人物で、もう一人重要な人がいます。
それは天璋院篤姫(1836~1883)という人です。この人は、島津斉彬の養女となり、江戸幕府13代将軍徳川家定と結婚しました。後に江戸幕府が滅びたときも徳川家の助命嘆願に奔走した人物です。
まさに勇敢な女性といえます。
紹介した幕末に登場する島津家3人は、戦国時代に登場する島津4兄弟のうち果たして誰の子孫なのでしょうか?
義弘の子孫
結論からいうと、島津4兄弟の次男にあたる島津義弘の子孫になります。
今からWikipediaを参考にして家系図にしてみたいと思います。
島津義弘
↓
忠恒(後に家久と改名 島津4兄弟の四男、島津家久とは別の人です)
↓
光久
↓
綱久
↓
綱貴
↓
吉貴
↓
継豊
↓
重年
↓
重豪
↓
斉宣
↓
斉興
↓
斉彬
斉興
↓
久光
斉宣
↓
忠剛
↓
篤姫
本来は、全員まとめて一つの家系図に表したかったのですが、パソコンで打てるのは↓矢印の記号だけなので、
親
↓
子供
というふうにしか表せませんでした。なので、斉彬、久光、篤姫の3人をそれぞれ別に書きました。見ずらくなってしまい申し訳ありません。
家系図を見ると、篤姫は斉彬と久光のいとこの関係にあたります。
いとこの関係なのですが、篤姫と斉彬の年齢差は27歳差と親子ほど離れています。
篤姫は斉彬の養女となったわけですが、全く別の家から養子になったわけではなく、もとから近い血縁関係だったことがわかります。
3人とも義弘の11代後の子孫になるわけですね。
義久の子孫
最後にもう一つ話したいことがあります。
それは女系をたどっていくと、幕末の島津3人は戦国時代の島津4兄弟の長男義久の子孫にもあたります。
義弘だけではなかったのです。
これを家系図にしてみたいと思います。
義久
↓
御平(義久の長女)
↓
忠清
↓
忠清の娘
↓
光久
↓
これ以降の子孫は先ほど書いたものと全く同じになります。
【終わりに】
島津家は鎌倉時代から続く名門の家であり、戦国時代の乱世の世で活躍し、江戸時代を通じて改易になったことが一度もなく代々血を受け継いでいき、そして幕末でも活躍しました。
家系図をみるとやっぱり何百年違っていてもつながっているんだな~ということが改めて実感できました。
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
これからも血縁関係シリーズは続くので、興味のある人は読んでいただけると嬉しいです。
ではまた!