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木村勇大と山田を出した京都サンガの勇気と素晴らしさ

使えるかもしれない物を出す勇気

正直、サンガをみるに使えた人材ではある。でも使わないかもしれないのだ。

使わなければ選手は腐る

はっきり言おう、どんだけ有能な選手でも、試合で使わなければ腐り続ける。サッカー界において若さが絶対であることは言うまでもない。まだ使えるかもしれないという温情が選手を腐らせる。

使えるかもは優しさではなく罪である

この一見優しさにも見える行為によって、選手はダメになる。若手だけが多くチャンスをもらえる。トライアンドエラーで自分を磨く、それがなければ才能があると言っても、それはアマチュアレベルの才能だと言われてしまうのだ。

才能を潰すのはサポーターでもある。

一番だけを見て、悪い部分を見ない、若いから良い、若くなくなった、手のひらを返す、それもサポーターの本文である。

サポーターはわがままだ

サポーターも客である。有望な選手であれば、勝手に期待して、勝手に失望する。能力を冷静に把握などしない。期待こそがサッカーにおけるエンタメなんだ。自分もいっぱいした。北脇健二に夢を見た、山田剛綺に夢を見た。他にもいっぱい夢を見た。でも上がれなかった、期待外れだった、自分のうぬぼれに後悔した。そんなもんである。

仮に落ちたとしても正解だと思う。

仮に落ちたとしても正解である。もう、木村も山田もJリーグの器ではない、三億ぐらいの価値はある、原大智も価値がある。そのように考えれば、落ちても八億下手すれば.十億が転がる。これはすごいことなのだ。j2の平均人件費が十億ぐらい、それを三人で生み出せれば相当なアドバンテージである。

たとえ一年で上がれなくても 

今年の清水を見ればわかる、結局は金があれば強い。選手を売らなくても金はそこそこあるのだから、仮に1年で上がれなくても関係ない。それだけのものを生み出したのだから大正解だし、これでもし残留したらサンガは大正義なのだ。胸をはれ京都人よ。

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