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私という名のシステムのリソース

引き寄せない法則の6
「ヒトのリソースの臨界点」

私は音楽制作をひとつの日常としています。
言わば「クリエーター」の肩書きを持つ者・・・とは名ばかりで、実際の生活の糧は他の「実業」に依存しております。はい。

でもある日、自分に何かしら肩書きや、目的意識を持たせる決意をしました。

苦痛で、つまらない仕事を、例えば「生活のため」と区切ってしまうと、狭い狭い領域にその苦痛は凝縮されます。 

それが、「家族のため」みたいな目的意識が加わると、少し苦痛の濃度が薄まります。

更に、「趣味やコミュニティのため」となると、かなり濃度が下がります。

更に更に、「地域や国家のため」となれば、もはや全く異質なモチベーションへと変貌します。

更に更に更に、「全人類や宇宙のため」となれば、日々の苦労などまさしく量子レベル。

そこまでの「達人領域」は求めずとも、私の場合は「永遠にクリエイターでいよう。他はついで」と、目的と手段の主従逆転をやってみた訳です。

ありがたいことに、note公式さんも私のことをクリエイターと呼んで下さる。
それだけでも充分、私は念願のクリエイターになったんだ、ちゃんと事実関係もある、と。

それによって、かなりの部分において、日常の生活のためになす仕事であったり、作業であったりの心的負担が少なくなりました。

全ては「創ること」の材料になる訳ですから、無駄なことなど何もないと感じられるのです。

しかしです、やはり時間は限られます。
正確には時間と体力。

収入のための実業には、やはり相応の時間と体力を要します。日によっては1日15時間ほど外で拘束されてしまう。

加えて、新たに取り組むことへの技術的な課題もある。
音楽制作を独りで完結させるには、一定程度オールラウンドなスキルが求められます。そして、その作業スピードも。

noteも然りです。「使いこなし」にはまだほど遠いレベルですし、両手タイピングすらようやっと思い出している状況です。

それら含めて、私という個人が、仮にPCのような一個のシステムであるとするならば、そのリソースにはやはり、限界なり外枠がある、となります。

面白いことに、音楽制作の環境や過程も良く似ています。


音楽制作とPCの性能

現在、音楽制作のプラットフォームは多分にDTMやDAWといった、PC上での作業に比重が移行しています。

この辺の事情に余り詳しくない方向けに、ざっと説明しますと、普段何気なく耳にする「ステキな演奏」は、結構な比率でPC制作だったりします。

「生演奏」と感じるものも、意外なところでPC制作。
シネマティックやBGMも、かなりかなりPC制作。

そして、有名どころの歌にしても、ご本人が歌っているのは確かですが、必ずと言って良いレベルで、PC上でのボーカル補正が入っています。

それぐらい、PC作業というものは音楽制作に深く入り込んでいる訳です。

こうした概念は、私が音楽制作にハマり始めた20年以上前から既にありましたが、劇的に変化したのは「PCのスペック」です。

音楽制作には、かなりのPC性能が要求されます。簡単に言うと「容量を喰う」のです。 

少なくとも20年前、本格的にPCでの音楽制作をやろうと思ったなら、10万円程度のPCでは歯が立たないレベルでしたし、仮に出来たとしてもかなり寂しいものであった感は否めません。

それが今や、当時の100倍とも言える性能のPCが、かなり手軽に入手出来ます。
事実、私が現在愛用しているのは秋葉原の中古ショップで発見した16,000円のシロモノ。
それでも出来ちゃうから凄い。

では、これで制作環境は整った、ガンガンやろう、、、とは行かないのが、この世のもどかしいところです。


リソースオーバー

音楽制作のプラットフォームとなるDAWソフトというものは、言わばマルチタスクの塊みたいなソフトです。 

オーケストラの「スコア」がイメージとして近いのですが、例えば20のパート、楽器で成り立つ楽曲ならば、20個のトラックを用意する。スコアで言うなら20段となります。

この、20段のトラックにそれぞれ、楽器の演奏データを入れてゆく、簡単に言うとそんな作業となります。

DAW画面

実際にやってみると、かなり地道で根気の要る作業になりますが、そこはやはり「創造」の世界。
当然楽しくもあり、やるに従い、慣れるに従い、段々とクオリティが欲しくなるのです。

すると、いつの間にかトラック数は増え、それぞれに細密化します。
そこへ「エフェクト」という、必須の音響効果を複数割り当てる(これもかなり沼)と、あっという間にデータは肥大化します。

これらを同時に走らせる、つまり「演奏」させることは、言ってみれば30個ほどのアプリケーションを同時に立ち上げるのと似ています。

そりゃ、「逝く」わけです。

実際には、音がノイズだらけとなったり、ギゴガガっと止まる、いわゆるハングアップが起きます。 

20年前に比べたら、格段にPC性能が向上しているとは言え、それに比例して時代が求めるクオリティ、私が求めるクオリティも肥大化していることに、改めて気付かされます。

以前、
【コラム】仕事はなぜ楽にならないのだろう
で触れましたが、時代と共に仕事を取り巻く周辺機器などは多様化、高度化しているのに、私たち人間の仕事というものは、何故かさほど楽にならない。
事態はこのことと酷似しています。

常に常に、機能の高度化とニーズというものはせめぎ合い、ギリギリの境界を超えたその先に、進化なり発展なりがあるのは、一面において真理でしょう。

しかし、問題は私たち人間についてです。
果たして人間というものは、例えば「10年ひと昔」の如く、斯様に日進月歩で進化するものなのでしょうか。

それはやはり、あり得ないと思います。

そしてここにも一つ、現代社会の「生きにくさ」の要因があります。

私のリソース

私たち人間が一個のシステムであるとして、仮にPCの如く高機能化を続けるとするならば、それはどのようなものか、機械部品的な態様の変化から想像すると、結構答えは簡単です。

PCの心臓部である「CPU」、高機能化の象徴と言えばこれですが、単純に言えば初期のシングルコアからクアッドコアへと進化しています。

人間で言えば、心臓が四つ、あるいは脳が四つに増えちゃった訳ですから、それはまあエグい変化です。
私たち人間に同様の進化が起こるとは思えません。

よしんば起こるにしても、それは一万年という単位ですらない、数百万、数千万年という時間感覚だと言えます。
まずもって、基本スペックの領域はそうなります。

そしてリソース。
人間におけるリソースがどこに当たるか、簡単に申せば「どこかハングアップ」し、「システムダウン」を引き起こすかですが、ここを把握することが今後とも、私にとって大きな大きなテーマのひとつとなります。

少なくとも、PCにおける「メモリ」や「ハードディスク」に当たる記憶領域ではなさそうです。

何となく私たちは、生涯において様々に習得し、知識や情報を蓄え、技能なども向上させることによって「自身が高性能化した」と思いがちです。

しかしそれは、言わばハードディスクという記憶領域にデータを蓄積し、それを処理するアプリケーションが多様化、高度化するのと同様です。

決してPCにおける基本スペックそのもの、つまりハードウェアとしての脳が進化したのと同義ではないと思うのです。

おそらく、記憶、情報、思考、感情、刺激、これら全てをトラフィックする、まとめる領域が脳にはあり、そこが各個人の「リソース」を担っている。
それはCPUの本丸かも知れないし、全く別物の感もあります。

現段階では、まだその程度の理解に留まりますが、現実としてハングアップし、システムダウンは起きる。

私がかつて「抑うつ化」したようにです。

今向き合うべきは、「限界がある」という明白な事実でしょう。


マルチタスク

全盛期(?)の私は、まさにマルチタスク人間でした。様々な仕事を同時進行でこなす、仕事と家庭も両立し、多趣味で交友関係も広い。
そういう人間が有能、そんな時代認識でもありました。

で、これ間違いです。

そもそも、人間というものは、その一瞬一瞬を切り取れば、やれる事などほぼ一つです。
同時進行と見せかけて、実際は瞬時に「負荷をかけて」対象を切り替えているに過ぎません。
結果良いことも、効率的なことも少ないのです。

少ない割に負荷は高い、つまり、ただただ、おそらくは無駄に「リソースを喰う」行動に過ぎません。

それもあって、私はいつの日からか、この「マルチタスク」を自身から極力排除するよう、強く意識しています。

従いまして、本稿における「引き寄せない法則」の要諦は「マルチタスクをやめる」となります。


さて、再び音楽制作の話でこの稿を締めます。

私は吹奏楽経験が長く、音楽性の根底には大編成至上的感覚があったと思います。
端的には、重厚で華やかなサウンド、となります。

自身で楽曲を創る際も、どうにもその「癖」が顔を出します。
アレもこれもと、色々と音を重ねて、ほどなくPCがギブアップ、となる訳です。

なら、PC買い替えたら良くね?となるのが当然ですし、人間の消費意欲の源泉みたいなものがそこにはあります。
楽器だって良いものが欲しくなるし、便利な周辺機器だって無数に存在します。

しかし、そこに敢えて待ったをかけます。単に家計的事情もありますが、まずもってキリが無い。
それ故、そもそも音楽制作を再開した折のコンセプトに「今、ある物を活かす」を設定しています。

そうするとです、探せば色々と出会うのですよ、タダのものに。

一方のPC、これはさすがにタダとは参りません。
そこで発想の転換が起きます。

いつの時代も「必要性」というものは思わぬ気付きをもたらしてくれたりします。

つまり、創りたい楽曲に機材を合わせるのではなく、今ある機材で成立するものを創れば良い。とても単純な主従入れ替えです。

トラック数を極力減らし、旋律も音数を減らし、構成もシンプルにする。
「なんだ、出来るじゃないか」
そこにも気付きがある訳です。

私は何かにつけて付け足し過ぎていたと。
引き算、断捨離の概念とも言えるものが、ここに具現化するのです。

振り返ると、今手元にあるおそらく10年落ちにはなろうノートPC。これもひとつの気付きを与えてくれます。

私という名のシステムのリソースにとって、これくらいのスペックのマシンはまさに最適であると。

決して自虐ではありません。




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