上杉景勝と側室・四辻について
今回は上杉景勝と側室・四辻(四辻公遠の娘・桂岩院)について呟いて行こうと思う。上杉景勝は景虎との家督争いを制し後に豊臣政権で五大老に列するなどその立ち位置はとても興味深い。景勝もまた事績などは様々な媒体で既に触れられているのでここでは個人的に興味を持った事柄について触れていきたい。
<略歴>
上杉景勝は弘治元年(1556)11月27日に長尾政景と上杉謙信の姉仙桃院の子として誕生する。幼名は卯松で、『上杉家御年譜』によると兄に早世した右京亮義景がいたとされるが、今福匡は同時代の記録には見えないと指摘する。永禄7年(1564)、景勝が10歳の時に実父・長尾政景が野尻池で溺死した。死因は事故死とも暗殺とも言われている。その後12歳頃に元服し名を喜平次顕景と称す。また同時期に上杉謙信の養子となったと言われている。
天正3年(1575)1月11日、養父上杉謙信より諱を景勝と改名させ弾正少弼の官職を継承。これにより、上杉家の家督継承者の一人と見做される様になる。
天正6年(1578)3月13日に謙信が春日山城で没すると同年から翌7年(1579)にかけて同じく謙信の養子で北条氏出身の上杉景虎との間に御館の乱が勃発する。御館の乱発生前に景勝と景虎どちらが継嗣であったかは一般的には景勝であったとされるものの謙信の遺言状がなく諸説ある。当初は実家の北条氏及びその同盟者であった武田勝頼を味方につけた景虎が優勢であったが景勝が武田勝頼と同盟を締結したことにより形勢逆転し、また北条氏の支援が鈍かった事もあり最終的に景勝が勝利し上杉家の家督を相続することとなる。武田の方針転換に関しては北条出身の景虎が相続した場合武田領は実質北条に挟まれる形となる為それを嫌ったことが理由と考えられる。この同盟締結により勝頼の妹である菊姫が景勝に輿入れしている。
家督継承後も休まる暇なく織田信長の攻勢を受け、また恩賞の諍いにより新発田重家が離反し織田方に通じるなど苦境に立たされることとなる。天正10年(1582)に同盟相手の武田氏が織田方に攻め滅ぼされるといよいよ上杉が次なるターゲットとなり、この際上杉景勝は佐竹義重宛に織田方との戦いや滅亡の覚悟を記している。しかし同年6月2日に明智光秀が主君織田信長を討ち果たす(信長は自刃)本能寺の変が勃発したことにより景勝は九死に一生を得る。窮地を脱した景勝は早速川中島四郡を奪取し、また新発田攻めを行うがこちらは苦戦を強いられる。
中央政権との関わりでは織田政権を牛耳りつつあった羽柴秀吉と接近し、天正11年(1583)に秀吉及び当時主君であった織田信雄に書状と誓詞を提出している。
同年の賤ヶ岳の戦いと翌天正12年(1584)の小牧長久手の戦いを経て名実ともに秀吉が政権を確立させると天正14年(1586)6月22日上洛し豊臣秀吉と接見。従四位下に叙せられ左近衛権少将に任官する。この際に秀吉から景勝宛の書状の宛先が「上杉殿」から「上杉とのへ」と書式が変わり上杉景勝は正式に秀吉に臣従し家臣となる。
天正16年(1588年)5月26日、上洛し、従三位に昇叙し参議に補任。これにより上杉家は武家清華に列し清華家の家格となる。この武家清華は豊臣政権の家格において最高峰の格式であり、これにより上杉の政権内での序列は確固たるものとなった。天正17年(1589)9月28日までに近衛中将を兼帯し、また羽柴の名字と豊臣の姓を与えられ羽柴越後宰相中将と称される。天正18年(1590)には小田原攻めに参陣。文禄3年(1594)8月18日(公卿補任より、10月28日以後説あり)に豊臣景勝として権中納言に転任する。この権中納言転任は同じく戦国大名系出身で大身である毛利輝元に先んじたものであった。
文禄4年(1595)8月3日、公家武家の法度を徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景とともに連署し制定する。この6名が豊臣政権の重要施策において加判する立場となり彼らが後の「大老」であると見なされることとなる。その為五大老は当初は6名であり、通説で言われるような小早川隆景の死後景勝が大老に就任したとされるのは誤りである。慶長2年(1597)6月12日に小早川隆景が薨去したことに伴って景勝を含めた大老は「五大老」と呼ばれることとなる。
慶長3年(1598)1月10日、豊臣秀吉の命により生まれ育った越後から陸奥国会津120万石へ移封の命が下る。これは以前蒲生氏郷が担った東北の抑えとしての役割を担う為であり、この会津移封は五大老の就任にあたり前提となるものであったと考えられる。移封後景勝は会津中納言と称されることとなる。また同年の4月18日に権中納言を辞任している。
同年8月18日に秀吉が薨去すると幼い秀頼に代わり政権運営を担う五大老五奉行体制が本格的に発足し景勝も名を連ねる。しかし景勝は中央政権で主導権を握ろうとしたり積極的に発言する動きは乏しい。これは今福匡氏も指摘するように会津移封に伴う領国経営に注力する為であり、また後述するように大老で豊臣家と縁戚にない事、他の大名との交流が薄かったことが挙げられる。秀吉の遺言状などを見ても秀吉の中での大老上杉景勝の役割は東北の抑えを期待したものであり、中央政権での参与は双方共に意図が薄かったように思う。
一時上洛していた時期を除き基本的に在国し会津若松城に替わる新たな居城、神指城(未完)の築城を計画するなど領国経営に注力するが新たに越後に入った堀氏による年貢持ち去りの訴えや出奔した藤田信吉の訴えもあり、景勝は豊臣政権で覇権を確立した徳川家康より詰問を受ける。家康より上洛を促されるも景勝は秀吉より三年在国の許可を得たとして拒否、交渉は決裂し会津征伐が決行される。しかし征伐の最中に三奉行と石田三成、毛利輝元による蜂起が発生し、結局後に関ヶ原の戦いと称されるこの政変に勝利した徳川家康の覇権が確定。上杉景勝も翌慶長5年(1601)に正式に家康に基準値し、同年8月16日に会津120万石から出羽国米沢30万石への減封で決着する。
その後は江戸幕府の下で米沢の領国経営や慶長19年(1614)及び翌慶長20年(1615)の大坂の陣に従軍。家庭面では慶長9年(1604)、嫡子・上杉定勝が生まれている。
紆余曲折ありながらも米沢藩政を確立させた後、元和9年(1623)3月20日に上杉景勝は米沢城に於いて薨去する。享年は69歳であった。
<豊臣政権五大老としての上杉景勝>
景勝は上述のように豊臣政権で五大老に列する立場となったが、その中で唯一景勝は豊臣政権との縁戚がない。具体的に見ると
徳川家康→秀吉の妹婿にして嫡子秀忠が秀吉と相婿かつ娘婿、秀頼の義祖父
前田利家→娘が秀吉の側室で義父かつ娘が秀吉養女にして秀吉猶子かつ五大老の宇喜多秀家の義父
宇喜多秀家→秀吉の猶子にして娘婿と実質一門扱い
毛利輝元→継嗣(のち辞退)の毛利秀元が秀吉の娘婿
小早川隆景→養子の秀秋が一時秀吉継嗣となった元秀吉養子かつ豊臣一門筆頭格
と言った具合である。
当時景勝には嫡子も以前養子であった義真とも養子縁組を解消しており、縁戚を結ぶ術がなかった。そのような中でも五大老に抜擢されたのは早期から秀吉と誼を通じていたこと、他四大老に並ぶ大領を領しかつ器量を認められたためと思われる。
上杉景勝に求められた大老としての役割は上述のように中央政権の政務というよりは西欧における辺境伯や奥州探題に模されるような東北の抑えであったと考えられる。
<家中の体制の特徴>
上杉景勝時代の上杉家中の体制としては「直江専制」とまで称される直江兼続による執政体制が挙げられる。当初は直江兼続と狩野秀治との二頭体制であったが狩野秀治が病死した後は直江兼続が執政として政務を主導し、家中においても「旦那」と呼称されるほどの宿老としては格別の権威を得た。内政・外交の中枢を担う直江は他家からも「上杉家の悉皆人」とまで評された。
このような傀儡でない政務委任のような執政体制は戦国期では異例であり上杉景勝及び直江兼続体制の特徴と言える。
<上杉景勝の人柄及び身長について>
上杉景勝の人柄としては体格は小柄だったが威厳に溢れ部下達も彼を恐れ景勝の前ではみんな無駄口せず静かにしていた、また無口であまり笑わなかったと言われ威容に満ちた人柄であったことがわかる。
武将の身長や体格を推測する方法は甲冑の胴高が挙げられる。上杉景勝所用と伝わる上杉神社蔵の景勝所用「紫糸威伊予札五枚胴具足」の胴高は35.4cmであることが分かった。伊達政宗は胴高38cmの身長159.4cmなので恐らく上杉景勝の身長は154.5cmくらいと推測できる。ただし他の上杉景勝所用と伝わる具足の胴高は39cmであり、この場合景勝の身長は160〜161cmとなる。
両具足は胴高に振れ幅があるが景勝所用と思われる衣類は153〜158cmであること、景勝は小柄と伝わる(当時の平均は157cm)ことからやはり景勝の身長は154.5cm前後であったと推測する。
<側室四辻・桂岩院について>
上杉景勝の側室(のち継室扱い)にして嫡子上杉定勝生母である四辻・桂岩院は公家である四辻公遠の娘である。四辻については不明な点も多いが、今福匡氏は四辻の幼少期を公家で神主の吉田兼見の猶子となった御まん御料人と比定している。四辻=御まん御料人であれば『兼見卿記』において文禄4年(1595)の条に登場した際は9歳で、生年は天正15年(1587)となる。また上杉定勝出産時及び薨去の際の年齢は18歳となり、景勝との歳の差は32歳となる。
四辻が景勝の側室となった経緯は『上杉家御年譜』での隠密という表現から様々な考察があるものの、個人的には正室菊姫の許可及び推挙があったと考える。理由としては四辻の祖父四辻季遠は甲斐に下向経験があり、朝廷と武田の取次を行う等菊姫の生家武田と関係が深い。このことからも四辻は菊姫の内意により側室に選ばれたと考察でき、また御まん御料人の吉田兼見猶子は直江兼続が関与している事からも菊姫や兼続肝煎で側室になったと考えられる。
それまで景勝が側室や義真以外の豊臣家や他の甥等から養子を迎えなかったのは上杉景勝自身が養子同士による家督争いを経験したのも大きいだろう。また秀吉の側室の勧めを断った逸話もあり景勝自身菊姫所生の嫡子を望み側室に消極的な面もあったと思われる。とはいえ嫡子誕生は上杉家として必要不可欠なので菊姫の意向(生家武田氏と繋がり深い四辻家の姫)かつ景勝も見染めたらしい桂岩院を側室に迎えたということだろう。この辺りは忠恒の好みかつ姪孫(義久の曾孫)を側室に迎えた亀寿に類似している。
とはいえ義真以降も養子の話題は上がっており、具体的には関ヶ原後に徳川家康五男の武田信吉か本田正信次男の本多政重を直江兼続の娘を景勝養女とした上で養子とする案が浮上した。結局定勝誕生もあり本多政重は兼続の娘を娶った上で直江氏の継嗣(のち同意の上で円満解消)となる。
余談だがこの話から「定勝は実は景勝実子でなく直江兼続娘と本多政重の子」と主張する者もいるが政重が養子となるなら記録を捏造する必要がなく、そもそも政重と兼続娘の婚姻が定勝誕生の数ヶ月後なので根本から成り立たない話となる。
四辻は産後の経過が悪く定勝出産後三ヶ月に亡くなるがこの際景勝は深く嘆き悲しんだと伝えられており、菊姫同様に四辻への寵愛も深かったと思われる。その後も上杉氏と四辻家の交流は続き、景勝と四辻氏の孫である3代藩主綱勝は継室として又従姉妹である四辻公理の娘富姫を迎えている。
以上のように上杉景勝及び側室四辻氏について気になる点を述べてきた。上杉氏については自分自身まだまだ知識を積む必要があると思うのでこれからも調べていきたい。
【主要参考文献】
・今福匡『「東国の雄」上杉景勝』(角川新書、2021年)
・今福匡『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(星海社新書、2018年)
・『新潟県史』通史編2中世 1987年
・『米沢市史』第2巻 (近世編 1) 1991年
・『兼見卿記5』(八木書店、2016年)
・『織豊期主要人物居所集成』(思文閣、2016年)
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