初詣が終わったという区切る感覚について。雑記。

 私的には信じがたい話ではあったが初詣と一口に言っても地域の文化的慣習に依って神社を数社回って拝み倒すような人もいるらしい。そもそも神社に平時では用の無くなった現代人の多くは、神の社に参るという行為をどういった感覚で捉えているのだろうか。

 日本には所謂国教的な位置付けの宗教が無いという風に言われるように勝手に思っているが、断定するには拙速かと思う。仮に大化の改新にまで遡って日本の国家的体制は明治維新と合わせて大きく2回変わっているとした場合、国是から国体に至るまでの全てが進退を余儀なくされているはずだ。

 日本人の血統(ルーツ)がどこからの続柄を構成しているか知らないが、それにしても国を治めた物語から察するに数千年単位の出来事である可能性は考慮できる。この長期間人々は敢えて何も思想を持たないという姿勢を貫ける程鈍感とも思えない。ここで私的には日本人の祖先に自然に根付いた思想がいつ器(儀礼・形式)を与えられたかといった視座を持ってみたいと思う。

 思想自体は教科書に則れば恐らく縄文時代には潮流が存在していて、その後縄文人と交わった幾つかの民族が弥生時代に根付いて器を作って行ったとするとその器は当時の権力者の打倒と共に変化しているはずで、そこから建築様式も含めた器の塗り替えが前例を持って踏襲され続けたのかもしれない。

 これを考えると日本特有の宗教が育たなかったというよりは文献や形式は頻繁に手が加えられたので、上質な教育も無かった時代においては民衆が文化的に定着させるだけの水準で固まらなかったという表現が近い。

 こうして見れば現代の神道もまた一時代の一形式なので作法に拘るのは筋違いとも言えるので、現代人は思想にまで感覚が及んでいないと予測する。もしそうなら幾らどこの何社に願い事をしようが自由だが、単なる価値観の同調でそうしているならどちらにせよ病的な気がする。

 ここで指す病的な状態の何が良くないかと強いて言えば、これはもう教科書的にアニミズムではないという点かもしれない。思想も器も何一つ継承は行われておらず過去を決して顧みない姿勢を持ちながらも、過去の象徴のような社に現代的価値観で参るというなら私達は確実に時間的な連鎖から隔絶されていて寄る辺も無いので孤独である。

 もし本当にアニミズムの片鱗を残しているなら神話上の神や要所ではなく自然に参っていても良いはずだがこれも無い。もはや敢えて儀式化した意味やそこに込められていたであろう知的な蓄積は荒廃しているので、神聖な場所であっても儀式化された設備がなければ踏み入って良いかどうかさえ見当がつかない。

 まあ同調圧力と言えばそれまでかもしれないが、通常偉そうに自然と共生しようと思うなら自らその境界線と関連性を調べて相手の取り分を差し出すという理念を持っていなければ到底務まらない。勢いここに神々しい存在を見出すかどうかは別にしても、生かされているという実態を生態系を使って涵養できる環境は金ごときで用意できる代物ではない。

 国土に札束を願う事が病気でなくてなんなのか。それよりまだ宗教的神を信じていた方が数倍正気に近いとさえ思える。一つの人格を何かから見出している間は対話が可能かもしれないから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?