悟りとは無私・無我であるか。雑記。

 初めに注意として記しておくとこの文章は悟りを得ている人間の言語化や観察の質に寄せるもので、悟る事が容易か困難かといった入門書的扱いに適したものではない。



 主題に取りかかる。

 悟りを得た人間は有名さと言語化能力の低下が比例しやすい傾向にあるといっても過言ではない。だからこそ教えを求める人間は簡単に迷ってしまうが、悟った後の問題を少数ながらも見事に解決した人間を私はあまり知らない。

 そもそも人間の特質として焦っていたり不幸であったりネガティブな、詰まりは損得二元論的で損をする部類に入っていない場合言語化せねばならないという圧力が体内に起こりにくい。この概念が学術的に扱われているのか私は知らないが、問題を抱えている人間と抱えていない人間では口に出す語句や妄想の頻度も格段に違う。

 悟った人間は必要最低限の言語化をも時折惜しむ事があり、「全ての人間は元来悟っている」などの誤解を招く文句を使用することも珍しくはない。しかし必死な人間は藁にもすがる思いを持っているので冷静に前提を考慮するなどできない状態にある。

 だからこそ悟りに関する俗説を気の向いた時に悟った人間が言語化して紐解いておく事が好ましい。

 悟った後については幾つかの記録が残っているそうだが個人的に探しても毛ほどの痕跡も見あたらない。

 恐らく悟った人間の内でも傾向が二分されていて、俗世を離れる者と俗世に身を置いておく者がいたのだろう。しかし前者は多いのに後者が少ないのは、また理由があると私的には推察している。

 厭世的な価値観は少し偏って悟ったことで「タスク」を免れたから発生すると考えられ、実際に仏典にも自死を願い出た弟子の教えの理解度を測った後に、釈迦は自由にさせた、という具合のものも有ると又聞いた。

 苦しみから解放されたい人間は、悟ると同時に苦しみから逃れたい一心で続けていた挙動の一切を放棄できる。順ってただ生きるのみという状態が苦痛で堪らない。この苦痛は離脱症状ともいうべきものであり、表現を換えれば自らが知覚する全てを定義し直す選択肢を持った瞬間と表現できる。

 然るに苦しみを苦しみと定義し続ければ離脱症状は激しい。

 今までのように妄想を計画だと言い張っても誰かが同意してくれなければ現実感は極度に薄いし、行動の全ては自分の意思1つだけで定義し直せるので他責もできない。何もかもから乖離した状態でできる事は究極的に独りである状態、乃至、己自身を慎重に定義付けする事に尽きる。

 その独りであるという洞察は誰の定義に同意した結果生まれた信念であろうか。寧ろ悟る事で自然な繋がりを新しく認識できる可能性は無いものか。
 自身に対する理解は誰の分類法を鵜呑みにした結果の定義だろうか。人間はもっと幅を広く深く取れる生物である可能性は無いだろうか。

 こうした疑問に立ち返って漸くまた世間に溶け込んで行ける安定した精神が補完される。

 俗世を離れる事が悪ではないものの、悟って行動が止むという事は望ましくない。何故なら悟りを得て生活するということは自由になった世界で生き直すことであり、本来の人間像を類推するなら生物である以上物理的行動が停止する事が不自然なのは言うまでもない。

 更に社会福祉的な一面を挙げれば、人間の自然な状態が社会にあることは基礎を盤石にさせる要素と言える。

 何故なら妄想の集合体に鮮明な実像を投射するある種の破壊的行為でもあるし、真剣に原点にかえりたい人間に誤った出発点を見せずに済む。謂わば安全に文明を畳む基準になる存在なので、これを失った社会は出口を閉じられた檻に等しい。

 言語化されたから安心というのも考えものだが、言語化されない妄想に時間を費やさせるのも酷だと私的には思うのでこうして私なりに言語化して捨てておく。

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