算数の苦手な所について。日記。

 私は数学はおろか算数さえまともにできない。けれど酸っぱい葡萄の喩えにあるようにどうにか計算ができたからと言って、実在が仄めかされている醍醐味自体に惹かれる事が無かった。

 数字を扱うにあたって特徴的だと思うのは現実との激しい乖離だ。山1つに土を幾ら足されても相変わらず山はカウント1で静止するし、かと思えば土を削り出して盛ると定義に左右されはするが2つの可能性が出てくる。こうした要素は勉学における計算全般では徹底的に排除されていて、実生活の足しにはならない。

 買い物の際の代金計算に使うだろうと指摘する向きもあるのは理解できるが、脳細胞の挙動を、更に言えば朝起きてからの体調を、更に遡及すれば宇宙誕生の瞬間を定義しなければ買い物さえ確からしく成立しない。却って買い物するのに値札を前に定義を量産するのは非効率なので少なくとも私は実生活で算数・数学を使う事は無い。

 恐らくこれらの前提が私の数字に対する認知を物語っているとは思うが、だからこそ対比構造だけで成り立った概念にどこか冷たく接してしまっている。そしてこの悪癖を通して見るに、そもそも数字を足したり引いたり割ったりかけたりできるという定義は全てマイルールであり、マイルールありきのゲームがどれ程苦痛ですらあるのかが際やかである。

 1という数字は先述の山のくだりと同じで何をどうすれば2になるのかを明確にできない。もしかするとこの1は振る舞いが頑固であるなら変化しないという特徴を持っているかもしれない。もしそうならこれを変化させる目的は矢張りマイルールの断行にこそあるように見える。逆に何の特徴も無いのなら特徴が無いものを操作できるはずはない。

 1はただの概念なら概念を共有するかどうかは私に決定権があり、それが許されるなら1は1じゃなくなっても許される。強引な布教活動ほど新規ユーザーを遠ざける明らかな要素はないという現象の証明な気がする。

 これが行き詰まると長編作品の最難関であるインフレが起き、初めは内輪ノリで盛り上がっていたユーザーも次第に後味の切れ目を探すようになる。人々を惹きつけ続けるのは物理的に無理が生じるのだろう。その後にまで残る厳選されたユーザーは預かり知らぬところで参加型の私小説を書き続けるのは想像できるが、書きかけの小説をしかも長編で読ませるのは壊滅的にセンスに問題が宿っているのと、些かの対人スキルの欠如がみられる。

 然るに内輪ノリの段階になって漸く私の同族となり、私にとっての同族嫌悪を発生させる条件が算数及び数学的取り組みだった。そして私より計算ができる人間は私よりASD寄りだろうと密かに思っているのだが、算数に優しいギャルが少ないのを見ると物狂おしい悲哀を感じる。...よし、楽しく話せたな。

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