五感は解釈特化器官説ついて。雑記。

 私達は往々にして五感を誤解しているように見える。外界の情報を取り込んでいるとしているが、情報それ自体は五感への刺激が伝達されたのみに過ぎず、その刺激の発生源は体内に収まっている場合が殆どだろう。

 然るに五感は自己完結していて中立的で確固とした現実を反映している訳ではない。本来は旧式の自覚方法として瞑想などを用いるのだろうが、水の入った透明なコップに棒や箸を突っ込んで像を屈折させて、それに触れるまでの視覚と触覚のギャップを注意深く観察するといった現代的アプローチもありそうだ。一応瞑想でこれを自覚するのはあくまで副産物である事に留意しておきたい。

 上記から分かる通り大人になるにつれて五感は社会通念上の信念・定義と整合性が取れる形に世界解釈が寄って行く。目の前に物が無ければ触角への刺激は誤作動とされるし、目を閉じて不可思議な模様が浮かんでも生理現象と断じられて注目を逸らそうとする。しかし、今も書く通り元来五感は自己完結した器官であるのでそれが誤作動か否かを区別するのは困難どころか非現実的とさえ思えてならない。

 五感は常々整合性を、つまりは情報に時系列的、或いは社会通念的矛盾が無いかという意識の監査を受けている。ところが人間は眠りに落ちると夢を見る。夢は種類が豊富で取り留めが無く丸でで野放図なので記憶の整理が主だった役割とされるが、寝相や偏見や寝床周りの環境に影響された夢も見る。

 重い物が乗っていれば潰される夢、お腹の前で手を組むと触角の要素をふんだんに感じる夢、口が空いていれば砂漠で水を求める夢などだが、潰される時には効果音や絶叫やあり得ない痛み、手の感触は草木の質感や肉塊にまで変容を遂げ、砂漠では熱波や砂のさんざめく音まで再現される事もある。人間は感覚に整合性を持たせようとするあまりに、夢では五感の刺激を記憶によって改竄する事が少なくない頻度で生じる。刺激は単に刺激であって映像における整合性は夢の領分といえよう。

 さて、では目を閉じて見る夢と現実は果たして別物だろうか。映像と刺激を慎重に区切り、刺激は自己完結でき、更に意識に依る五感統制は屡々緩むと理解した時、夢とも呼べない夢を生きているとは考えられないだろうか。

 そうは言っても予告通りに電車は走るし、待ち合わせに人は来るだろう。けれどそれが対比構造の同意だけで構成されているとしたら視点は改まるのかもしれない。

 電車がスケジュールを持たずに自由に走り回る様子を目撃している人間は少ないし、人間は普段から相手に合わせて動きはしない。この1つ前のコマと対比する事で時系列の存在を主張するのかもしれないが、その普段の様子を用いた前後関係は他者との同意以外で現実だと主張できる要素は残っているだろうか。証明に同意する他者も同意しない他者との対比でしかない。

 究極、数値を幾つ出そうが法則をどれほど再現しようが夢の中にいるという仮定を打ち破るほどの力は持ち合わせていない。ワンシーン前のシーンと比べて間違い探しをする以外の時間の創出方法を私も含めた人間は知らない。

 だからこそ目で音を解釈できるし、音で味を解釈できる。プラセボで病はリセットされるし、可愛いの方向性も人によって感じ方が違う。そうなると問い直さなければならない事が出てくる。

 夢に対して理論を述べる事は有意義だろうか。夢に対して涙するのは正常だろうか。夢を恐れるのは関係性として相応しいだろうか。夢の中での同意とはイコール客観性だろうか。五感を乱用した信念体系や定義で世界を誤認し続ける事で得られるものはあるだろうか。そもそも何かを得て何かを失うなどできるのだろうか。

 これらの問いがあればこそ生命の根幹にある意図するという働きが何にも増して強い事が理解できる。人間は少なくとも意図という巨大な力に指向性を与える事で更に成長していけるはずだと愚考する。

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