戦争避難民と労働価値説



 ロシアとウクライナの衝突で日本も避難民を受け入れたらしいがどうも避難民の方の生活と給料に関するニュースを見ていて労働者としての人間と自然な人間を区別できていないように思った。

 1日の生活費が幾ら支給されようがその人の労働の価値が通貨に変換される時、誰が責任を持ってどの国のどんな価値を持った通貨へ変換させるのかは殊避難民や被災者にとっては死活問題になる。まして、戦争避難民ともなれば生活基盤が破壊された故郷へ帰るまでの時間は見通しの立つものではない。しかも避難先へ提供した労働力とその対価は下手すると故郷に帰った後に紙屑になるリスクだって現実的に存在する。

 国家の長がどう考えるかに関わらず労働力は買えるものではない。それをどうにか生み出すのに生活が欠かせないのは常識的な認識だが、どの国家も政府の役割をおままごと程度にしかできていないのが実情だろう。避難民だろうとホームレスであろうと子供であろうと作り出した生産物を大量生産するかどうかが、就中日本では重視されてしまっている。拾ったドングリを10個10円で売ることだって立派な生産活動なのに、どうやら政府はこのドングリの活用法や需要の存在まで正確に予想出来るので、価値が無い活動だという思想が根底に有るらしい。

 大量生産をしなくても1人の人間が行う生産活動を、生活を保障せず抑制する事の一体何が効率的なのか理解できない。

 例えば海辺で釣りをしている時にフグが釣れて、釣りに支障をきたすのでリリースではなく殺処分目的で陸地に放置される事は現実にある。これを近くに水槽を設けて隔離するように促す事でそのフグ達は少なくとも需要に対する供給へ生まれ変わる可能性を格段に高める事になる。後は保護犬、保護猫と同様に広告を大々的に出してみれば需要を掘り起こせるか否かは一目瞭然なはずだ。しかし、生活が保障されている時の心理的余裕や、モラルを手軽に守って褒められる事で生まれる心理的余裕はやがてこうして環境への配慮を容易にするほどの代物であるのに、企業に雇用されている状況では極めて誕生し難い珠玉だ。趣味の質はそのまま生活の質から来ないと誰が言い切れるだろうか。

 生活の中で生産活動をする者が労働者なのであって、生活の為に定型の生産活動をさせられる者は労働者ではない。

 避難民の労働価値は帰属する国家の民主的意志に依って決定されるべきものである。だが避難民はこの土台を崩されているので労働への対価と生活費は分けた方が良い。無論国内の普通の人間にも是非そうするべきだ。国家が生活を保障したり生産物を積極的に広告にのせたり、生産物の保存手段を提供した方が数億倍多様性を生む。ニュースでは避難民が言語習得を生産性の向上を目的にやっているきらいがあるので、これですら本来なら生産活動である。

 この辺りの考え方は綺麗事呼ばわりして長年ゴミ扱いされているものだが、そのツケを今回避難民を通して見ている気がする。

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