時間停止と物体硬直の無関係性について。日記。
※内容の一部は蛇足なので注意。
とある界隈の中でも一部のマニアにウケの良い創作物がある。それは時間停止モノと呼ばれて、内容はといえば時間を停止させる能力を何かの切っ掛けで入手し、その能力を使って自由を謳歌するといった具合のパターンが存在する。しかし更にそれを一定数疑問に思う人間がいるのも確かだ。
創作物ではハリウッド映画でさえ時間止めたり戻したりすることで物体を操る描写を認められる。だが実際には、時間とは想像の産物である事も忘れてはいけない。
時間や速度の議論によく用いられる論拠で、速さを求める算数の公式である「速さ(速度)=道のり(距離)÷時間」という馴染み深いものがある。これが時間の存在を証明するには荷が重い。何故ならこの公式は道のり、即ち既に「移動」という物理現象についての探求を放棄しているからだ。
一般に「移動を行った」と言うとき、移動前の「記憶」と移動後の「記憶」を何か自明のものとして比較しても良いとする過程がかなり多くの割合で発生するが、物理現象の論拠に記憶のみを用いるなど科学を愛好するなら容認されるべきではない。因みに写真を撮っても同じく写真と記憶が照合されるにとどまる。
こういった議論は一般的な観念における歴史上、世界五分前仮説などの名称で繰り返されてきた話だ。
さて、では何故我々ヒトは移動したと言わざるを得なくなったのか。それは予め現在地とは別の離れた場所へ終着点を定めた(意識的な決定)瞬間から始まる。先程の公式はこの過程に則っていて、速さも道のりも時間も現在地のみで完結させられると破綻するようにできていて、作為的な終着点が外付けのパーツとなることでなんとか保たれている砂上の楼閣にすぎない。
そして、最も興味深いのはこの後だろう。仮にその場から動かずに例の公式を使用して速度計算を行うと数字上はゼロが導かれるが、ヒトは世界に抱かれて物理法則の上で暮らしているのだからもう少し現実に目を向けるとする。過程の順序を忠実に追っていくと、確実にスタートはきられて確実にゴールへ到着した。この過程は数字の上で距離が有ろうが無かろうが免れない。ならば速度はゼロではなくたとえ光速を超えてもほぼ無限にすべきだ。
速さを無限にしてしまえば速度と距離の密接な関係は維持されるので、別段(特殊)相対性理論や不確定性原理とも矛盾はしない。仮に多くの物体が無限に速いのなら物体はどこにでも存在しうるが、けれども定まっているように見えるのならその物体は単に我々が体験できる状態に確率が収束しているのみだ。いずれ確率の拡散が大きくなれば全て場に還っていく。変化とは記憶の賜物で、ヒトは確率の夢を体験しているような状態にある。
上記を前提として良いなら死も何もヒトは確からしく誕生さえしていないので生きてはいないが、体験をしていて定まった物体も予め定まった時間経過の概念である未来も何一つ実体は無い。
纏めると、実際には物体を時間で操る事はできないし、時間に実在性も無い。従って、よしんば時間停止モノで能力が本物だったとしても犬がその能力の影響下に無いのは自然な事とも推測は可能だろう。登場人物幾分か動いてしまうのも同様の理由に帰結する。多分。
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