篠田節子さんの「ホーラ ー死都ー」を読みました。

舞台は不倫関係にある男女の訪れたエーゲ海の小島でした。
日本は多宗教というか無宗教の人が多い気がしますが、宗教によって成り立ち、支えられ、生活の一部になっている人々が、少ないわけでもないと思います。

歴史的な話はさておき、この作品では、人の本質的な役わりというか、人に与えられた能力というか、そういうものに対して人がどうむきあうか?ということに主眼が置かれていると思われました。

30代の後半から40代の前半にかけて、自分が何もできない人間だという想いに苛まれたことがありました。
「こんな人間が生きていてもいいのか?生きていれば家族に迷惑をかけるだけなのではないか?」そういう考えが頭を支配していた時期が結構長かったと思います。

今でも時折そういう考えがちらつくのですが、いつも思いだすのは、「その時よりはできることが多くなっている」「時間の経過が状況を変化させる」みたいな、当時の苦しさから抜けつつあるときに言い聞かせた言葉。

ただ寝ることしかできなかったときに、何をできるか考えたら、「歩くこと」ができた。
寝て歩くことをずっと続けているうちに、ほんの少し体の痛みが和らいで、またできそうなことを探した。
当時まだ今ほど普及していなかったパソコンで一生懸命治療法やメンタルの理論を探した・・・・。

時間が長く感じて、相変わらず「生きていていいのか?」という想いに囚われながら、できることを探してトライする毎日・・・・。
どれくらいの時間そういう生活をしたのかはっきり覚えてないですが、家族も苦しかったはず・・。
それでも、後退せぬように、毎日毎日歩いては考え調べては考え・・・。

やがて、ほんの短い時間仕事をできそうなくらいに回復すると、昔の自分に戻るための試行錯誤が始まった。
そんななかで時々考えたのが、この著書のテーマと思われる「人の本質的な役わりというか、人に与えられた能力というか、そういうものに対して人がどうむきあうか?ということ」でした。

今も同じようなことを考えながら生きていますが、歳を経て不自由や退化が当たり前になった今では、「生きていてもいいのか?」と考える必要がなくなりました。
相変わらずの「できることさがし」のほかに「やりたいことさがし」が定着するようになって、「時間の経過が状況を変化させる」ということを実感しているところです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?