長崎県美術館(1)アントニオ・ロペス        『フランシス・カレテロ』

現代的に洗練された建築は涼し気。
しかし日差しが強く、評判の現代建築の探検はそこそこに、受付へ。
開放感のある2Fのミュージアム・カフェでアイスコーヒーと野菜のサンドイッチを注文して一息。サンドイッチ、おいしかったです。そして、展示室へ。

アントニオ・ロペス『フランシス・カレテロ』
一つの作品に対し、長年にわたって手を入れる作風を持つスペインの画家、アントニオ・ロペス・ガルシアの手による、彼の叔父(政治家であり、画家でもあった)を描いた一枚。
叔父の名前が、フランシス・カレテロ。その、現代的な肖像画です。
この作品には、27年という長い時間が費やされたといいます。
モザイク化され、曖昧になっていくその肖像に込められたもの…。
作者へのインタビューによると、モデルである叔父の生前にこの絵に着手したものの、描いている途中に彼が亡くなってしまったため、「死者を甦らせる」というテーマが、この絵には生じたとのことでした。
つまり、この画家は、キャンバスに向かうことを通して、亡き叔父を感じ、対面し続けていたわけです。27年という長い時間をかけて絵は完成し、今、海を隔てた日本に展示されています。
作者が来日し、自作を鑑賞した際、彼は「叔父との再会を果たした」と語りました。つまり、この絵を通して、アントニオ・ロペスは「他者という存在」を哲学的に表現していると言えます。たとえその人がこの世を去っても、声や面影を追憶し、人柄や生き様をありありと感じるとき、その人はそこに存在している。そういう世界認識そのものが、ここに宿っていると思われます。
と同時に、一人の人間の持つ多面性、複雑性が、図らずもこの絵には滲み出ているように思えてなりません。ロペスの描き方には、時間とともに変わりゆく一人の人間を、移りゆく時間の中で、その時間もろとも表現していくという態度があるように思います。モデルが亡くなってなお、「死者」は画家の手によって長い時間とともに、変化を続けます。つまり、移りゆく時間の中で、生前と変わらぬ「生」を与えられていきます。とてつもなく長い時間をかけて一枚の絵を完成させていくというその手法は、「時間」というものへの、あるいは「時間の中でしか存在しえない人間」への、この画家独自の哲学的なアプローチなのだと言えそうです。
時の流れの中で移り変わってゆくものを、移り変わってゆくままに表現していく……本来、それは「映画」や「動画」の領域のはずです。物理的な動きのない絵画表現において、しかし、ロペスは対象を固着化するのではなく、モザイク化していくことで、その矛盾した試みに成功しているように思えます。
たとえばジャコメッティも、現代的な複雑性を持った対象に、モザイク化を用いて対峙しています。しかし、アントニオ・ロペスのモザイク性は、写真のような写実性を基本にしています。後期印象派の発展としてのモザイク化とは一線を画しているように思えます。アントニオ・ロペスの表現には、否応なく「最新の現代」が立ち表れてくることを感じました。
求心力を持った一枚ですが、ベストな距離と角度を探して、近づいたり、離れたりを繰り返していたら、ある時点で、モデルのカレテロ氏のポーズに制された気がして、はっとしました。
「もう、そこまで」
モデルは、そう言っているように思えました。

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