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やりたいこと 好きなことがわからないあなたへ(第10話〜第18話)

(第10話)

 入社してしばらく経った頃、初めて見る人が営業ルームへ勢いよく入ってきた。すると、周りの先輩たちが一斉に立ち上がって、その人に近づいていき、「常務! おはようございます!」と、大声で次々と挨拶をしていく。
 私を含めた新人たちは、戸惑いながらも続いて挨拶した。

 社長は急成長していた会社を率いる業界の若手実力者といった感じだった。常務は社長の弟で、2人とも体格が良く威圧感があった。
 常務は、しばらく出勤していない間に増えた新人たちを、一人ひとり呼んで個別面談をしていった。
 私との面談が始まってすぐに、常務が「お前は、よく本を読むだろう?」と聞いてきた。私が、「はい、本を読むのは好きです」と答えると、「なるほどな・・・」とうなずいていた。
 出会ってすぐに、そんなことを言われたことは、一度もなかった。今後、常務の言葉には耳を傾けた方が良いなと思った。

 他の先輩からすると、常務は恐ろしい存在だったが、なぜか私には優しかった。ある時、紙パックの牛乳を飲んでいた常務から、「お前は乳製品が好きだろう? 俺と一緒だな」と言われ、返事に困ったこともあったが・・・。

 また私の電話営業をずっと聞いていた常務から、「お前、どんな顔して電話しているか知ってるか? マムシだよマムシ! 今の気持ちのまま努力していったら、営業として大成功しちゃうぞ」と言われ、マムシという言葉に引っかかりつつも、褒めてもらえて嬉しかった。

 平日は都内にある本社で、ひたすら電話をかけていたが、土日は物件のある現地のモデルルームでの営業活動となる。新人は駅でチラシを配ったり、モデルルームへ案内したりすることが主な仕事だ。
 そんな中、常務がモデルルームへ来た時に、上司の隣に座って接客を学ぶように指示された。大人しく座っていると受付の女性が近づいてきて、お客様から連絡が入ったので控え室へ戻るようにと。私に電話をかけてくるお客様などまだいない・・・。恐る恐る戻ると、常務が待ち構えていた。

「いいか! お客様は家が欲しかったけど、今までずっと我慢し続けてきた人なんだ。今から言うことを、席に戻ってから5分以内に必ず言え! 
『お客様、今まで、本当に苦労されてきたんですね・・・。でもこれからは、お客様自身が、幸せになる番じゃないんですか?』 
言えるな?」

 とても断れるような雰囲気ではなく、やる以外になかった。ただ、接客中の上司はこのことを知らず、場の空気を壊さずに、指令を実行するタイミングが難しかった。

 言い出せずに5分が経った頃、待ち切れなくなった常務がモデルルームに入ってきて、最後通告と思える鋭い視線をぶつけてきた。
 私は意を決して、震える思いでお客様に言葉を伝えた。すると、具体的な指示までは聞いていなかった受付の女性が、涙ぐみながら控え室へと戻っていった。勇気を持って放った言葉は、お客様にも伝わったようで、何とか場を壊さずに済んだ。

 接客が終わり控え室へ戻ると、満足そうな顔をした常務が待っていた。「お前、受付の女の子まで泣かせちゃったか〜。よく言ったな!」と言われたが、ほっとしたのが正直な気持ちだった。

 しかし話はここで終わらず、すっかり上機嫌になった常務は、外回りから戻ってくる営業たちにも、今日私がやったことを見せてやれと言うのだ。結局その日、合計で7回も、あの言葉を " 気持ちを込めて ” 再現する羽目になってしまった。

 モデルルームから帰る常務を見送るため、全員で駐車場へ行った際、草むらから鉄パイプを持った酔っぱらいが突然出てきて、一番前にいた常務と数メートルの距離で向かい合ってしまった。
 私は一瞬だけ間を置き、2人の間に割って入ろうとする人がいないのを確認してから、常務の前に出て酔っぱらいと向き合った。その間に常務は車に乗ってモデルルームを後にし、しばらくすると酔っぱらいもどこかへ行ってしまった。

 常務はよほど嬉しかったらしく、翌日の朝礼で事の一部終始を話し、全従業員の前で私を評価してくれた。

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