蚯蚓文学

 幾分か空腹が顔をだした、まだ熱気こもる夕間暮れ。
 炭酸飲料でも買おうと家をでる。早朝、庭の手入れで着た作業用のシャツと帽子を回収、私道にでる。
 自動販売機までの距離は一分程度の短い距離。ふと、アスファルトの道路をみると、日向で蚯蚓が干からびていた。これはよくある夏の光景で、当然、通り過ぎる。その先にも蚯蚓がいた。
 しかし干からびてはいない。動きは鈍いが、生きている。
 私は低次の温情を発揮し、即座に蚯蚓をつまみ、自宅の日陰になっている土の上に置いてやった。
 暮れ鈍る夏の宵の光りがまばらに差す自転車置き場で、しばし、蚯蚓の様子をじっと見ていた。ついでに唾を垂らしてやる。うねうねとゆっくり動いている。元気がないのか、これで普通なのかは判然としない。いつも作業中に観る個体と比べれば、水気が足りない気がする。
 出来ることはこれ以上無いので、炭酸飲料を買いにいく。昼よりは熱気の圧迫が緩んだ空間をゆったりと切って、コインパーキング横の自動販売機に辿り着いた。日曜日の予算ギリギリで一本買える、精緻に組み上げたその配分に喜びを感じながら購入した。
 しかし気になるのは「救助」した蚯蚓の様子である。小脇に冷たいのを抱えながら「救護所」にいくと、動きは鈍いが確かに生きていた。これで蚯蚓は助かったのか。明日の朝見てみたら、死んでいるかもしれない。または、地中に潜ったり、移動したりして見当たらないか――、
 旗竿地の通路を通り、奥まった場所に或る門戸の前で、それは起きていた。おそらくバッタ、頭部が欠損した遺体に働き蟻が群がっている。首元の接合部や、腹部、緑の羽根に黒い点々が襲い掛かっている。
 何が切っ掛けでそうなったのだろう。もしかしたら、鳥類に狩られ、頭部からざっくり食いちぎられ、落下。ほどなくして死臭を嗅ぎつけた蟻たちが集まってきたとか。
 蚯蚓を救ったあとで、バッタの無残な姿を目の当たりにして、俯瞰的に悲哀を感じ、命の、野生における厳しさを意識した。家に入りしばらくして、あの蚯蚓に水をかけてやろうと、計量カップに水道水をいれてもっていく。
 姿はなかった。
 あの動きであれば、遠くまでいってはいないだろうから、地中に潜ったのだろうか。仕方なく水を撒いて退散した。
 日曜日の夕暮れにおきた、小さな出来事。屹度、すぐに記憶の奥へ押し込まれいく。思い出すことはない。
 無駄かといえばそうでなく、自分の人間としての優しさを確認、それを文章として残すことで感受性を養う。そんなことを積み重ねて、少しは進歩するだろうか。
 それはそうと、あの蚯蚓は無事なのか。
 相手は環形動物門貧毛綱に属する動物であり、目がなく、手足もない紐状の、蠕動運動でうねうねする、どちらかと言えば嫌われ者。他方、土壌を豊かにし、鳥類などの餌として動物界の食物連鎖の最下位にあるもの。
 だが、関わってしまった。
 行方知れずの彼の健康を祈ることにする。
 さて、この一滴の優しさの純度はいかほどだろう。
 一考してみると、それは単純に「興味本位の気まぐれ行動」であると結論付けた。善行などと自認すれば、それは奢り高ぶった偽善であり、唾棄すべき浅薄な感情であるとの自己嫌悪は避けられない。
 ならば何故、わざわざ『蚯蚓文学』と称したかといえば、「何を書こうか」と創作の迷宮に足を一歩踏み入れたところで、日向で瀕死の蚯蚓に出会っただけなのだ。「行き当たりばったり、出たとこ勝負」な私はボクサーで言えばノーガード戦法、しばしばノックアウト。
 運がよければ佳作が書ける、そんなアマチュア丸出しのスタイルをそろそろ卒業したい今日この頃。
 夏の蚯蚓のように路上で干からびないよう、感受性を鋭敏に尖らせていこうと、心にメモリーする。
 そう思えただけでも、まだ熱気を帯びた日曜日の夕間暮れの出来事は、意味があるのかもしれない。そう思い込んで、前進の糧として、風呂に入って飯でも喰って夜更けに身を委ね、月曜日に備えることにする。

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