隣りの奴が壁殴っててやってられん。
 うすら寒いアパートの、二階の角部屋で思った。
 ドス、ドス、ドス、ドストエフスキー。
 壁を打ち破らんばかりの勢いで、淡々と、一定のリズムで毎朝毎夜、壁を殴ってくる。角部屋であるから、犯人は間違いなく隣りの奴で、文句言いに行ってやろうかと怒りのボルテージが上昇したが、引っ越してきて一度も話しかけていない。あれやこれやと忙しく、面倒になり、タイミングを逸してそれ以来、一度だけ隣人の姿を見ただけだった。
 あれは一カ月前、月明かりと街灯を頼りにアパートの前までやってきて、ふと見上げると巨体のオッサンがいた。
 ハゲ落ち武者ランニング乳こぼれズタボロ短パン便所サンダルでぶ。
 糞のコンプリート具合は異様な迫力を帯び、危険なムードをたっぷりと豊満に醸しだしていた。異界の加湿器のようだった。
 触れてはならない特級呪物、こちらに罪はないというのに、拳壁ドンはきつ過ぎて中秋の名月。
「やはり、ここは文句を言った方が。それは丁重に」
 そんなことを零しているうちに、仕事の時間すぎて、脱兎のごとく出勤する。行くそばから帰りたいが、隣人の拳が待っていると思うと、複雑怪奇な精神状態に陥る。
 重い荷物を積んでは運転して届けてはまた重い荷物を、と、やっている間も奴のことで憂鬱で、これは鬱患いか。
 日が暮れ仕事も終わりコンビニで、五百ミリの缶ビールを三本とチキンナゲットとスルメイカを買って帰り道。気分もビニール袋も重すぎて、アパートの階段を昇る足取りナメクジであり、玄関で腰をおろす。
 ドス、ドス、ドス。
 それは、おかえりなさいと受け取っていいのですか。
 正常性バイアスが馬鹿になっていることに心底恐怖に震え、引っ越しというワードがよぎる。たぎる怒り。
「なんで、あのデブの為に引っ越し代ださないといけんのか」
 なんの罪もない純白のパンティーの自分が、金銭的ダメージをうけなくてはならんのか。
 死ねよ。
 お前の故郷下水道に里帰りせよ。
 暗渠の腐泥で溝鼠の餌になりて糞になり汚水としての天寿を全うしろ。
 沸々と、そして確実に、フラストレーションは噴火の兆しをみせていた。
 耐えられん。
 ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス。
 憤然と立ち上り、ビニール袋を丁寧に冷蔵庫に押し込み、視界は早送りのスピードで流れて隣人の玄関前で仁王立ち。
 手垢で汚れた呼び鈴に指をかける。
 開いた途端に殴られたらどうしよ。
 やったろうか。殴り返してみようか。
 いや、その後気まずい。壁こぶしが激しくなる。穴空く。空いた場合、奴の責任になるのか? いや、自分が問われないとは限らない。かといって、無抵抗にサンドバッグでオーライな訳がなし。
 殴られる前提がそもそも偏見ではないか。
 意外と物腰柔らかで意外と笑顔は可愛らしく、「壁こぶしスイマセンでした色々とあってむしゃくしゃしていて」「そうですか、今後気をつけてもらって」「ホントスイマセン」とニッコリ。
 ニッコリ?
 は?
 へ?
 馬鹿にすんなよ。あんだけ、ドスドスドストエフスキーしてニッコリじゃねぇよ。素寒貧のおたんこナスの肉詰めド腐れ生ゴミ野郎め。
 言ってやる。ハッキリとキッパリと激詰めてやる。
 呼び鈴は甲高い音を響かせた。
 無音である。
 もう一回押す。
 なしのつぶて。
 三度目の正直。
 静寂。
 押して駄目なら引いてみな精神で、ドアノブに手をかけると勝手に開く。
「お邪魔しますよ、いますよね、スイマセン。うん? 臭っ、いや、臭っ」
 その後。
 あまりの臭さに記憶がぶっ飛ぶ。秋の夜の寒さに震えていると、
 警察がやってきて、遺体を発見して、鑑識さんがやってくる。
 遺体は引き取られていった。
 可及的速やかな急展開であった。
 引っ越そうと決意し、退去日も決まったある日の夜。
 ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス、ドス。
 冷や汗ぐっしょり。脇汗しんみり。
 幽霊確定演出やめてくれよ。原状回復して空き室だよ、事故物件です。
 もう殴り返してやろ。
 拳を壁に当てる。痛い。痺れる。
 すると、玄関扉を殴る音が響き渡る。
 ドス、ドス、ドス―――
 もういい加減にしてくれ。
 成仏してくれ。
 それは、秋冷に震える秋口の、朧月の汚い夜でした。

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