殺生ナウ

 私の「殺し」について書いていこうと思う。無論、殺人ではない。
子供の頃からよく虫を殺していた。庭の紫シソにいた小さいバッタを人差し指と親指で掴み、四肢を引きちぎる。そのまま捨てるか、稀に、首も引きちぎっていた。意味などない。 
 蟻は踏みつぶしたり、巣穴に水を流し込んだりした。小さすぎるのであまり面白くない。特に、意味などない。
 ナメクジを見つければ、何処で仕入れた情報か、塩をかけていた。彼らは人間のような皮膚ではなく、半透膜とよばれる薄い膜で覆われている。塩が粘液に溶けて濃い食塩水ができると、ナメクジの体内の水分が半透膜を通じて外へ出ていってしまう。そして小さくなったナメクジには用はない。また次の標的に塩をかける。意味などない。
 ナメクジつながりで、カタツムリ。彼らは意図せずに踏みつぶしてしまう。無残にも砕け散り、遺骸にまとわりついた殻、気色わるいので草むらによける。粘液が彼らの死の名残をあらわしている。悪いことをしたが、偶然である。意味などない。
 その他にはゴキブリ、小さな蛾、稀に蜘蛛、極めて稀に蜂、トンボの羽はむしったかもしれない。つまり、殺しはほぼすべて「虫」に限られる。カタツムリは軟体動物門に属する陸棲の巻貝だが。
「殺しそのものに意味などない」主に子供時代の行動について述べた。子供が虫を殺す理由を調べたが、釈然としない。
「駄目と分かってやる、親に対する試し行動」
「まだ、虫に命があると理解していないための行動」
「稀にサイコパス」
 私は特に意味もなく殺していたので、サイコパスなのか。いや、共感能力はあるし、目的の為に手段を選ばないなんてことも無い。だとすれば、何故虫を殺していたのか。
 興味本位。ちぎったら、どうなるのか。塩をかけたら、どうなるのか。深度は浅く、表面的な衝動によるもの。
やはり、サイコパス?
 ちなみに、私は昆虫食は興味はない。ほかに美味いものが山ほどあるというのに、進んで食べたいとは思わない。虫は不快で邪魔なことが多く、捕まえて飼育していたのは子供時代のみ。
私と虫のコミュニケーションは殺すに限る。意味などない。
 少々、怖くなってしまったので、最後に一言。
「沙村広明先生のブラッドハーレーの馬車、丸尾末広先生のアン・グラ、
うめざわしゅん先生のユートピアズ/ポリティカル・コレクト版を昨日、
買ってしまった! 最高にDopeでPervでCoolな選択だぜ!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?