記憶旅行

 この装置は記憶の世界に旅行できるらしい。
 棺桶のサイズで、ブルーグレーの物体。スイッチを押して中へ入ると、記憶の世界へ行けるという。
 高額の報酬でモニターに応募した。三カ月は凌げる金額にひかれ、抽選で選ばれ、送られてきたというわけだ。仕事は簡単で、三日間、一日八時間使用してレポートを提出する。旅行の内容はネットを通じて会社に送られるらしく、たったそれだけ。
 簡単な説明が記されたテキストが同封されていた。内容は使用方法と、レポートの書式や文字数の指定、そして禁止事項。
 禁止事項はたったひとつ。
『ご自身のトラウマに触れる記憶は避けてください』
 トラウマ。
 思い出せない。そんなものあったか。
 記憶を遡って、はっきりと記憶のある五歳ごろから、現在まで探ってみる。思い出されたのは、小学校低学年、体育の授業中に大便を漏らしたとか、中学一年生の夏、はじめて女子に告白してフラれたとか、そんな、他愛のないことばかりで、我ながら、起伏に乏しい人生であると再確認した。 
 トラウマというほどの記憶はない。
 しかし、トラウマというものは記憶から消えていることが多い。
 トラウマが大きすぎるとか、胎児期の子宮内の体験、また、出産時の体験。物心ついていない幼少期だとか。 
 ともかく、トラウマが「いつ」「どこで」「どんなとき」「どんなこと」に潜んでいるかまったく特定できない。
『装置を利用してトラウマに触れてしまった場合、何がおきても責任は負いかねます』
 何がおきても。随分と恐怖心を煽る文言である。
 これでは使用できない。するわけにはいかない。だからといって、むざむざと臨時収入を逃す訳にはいかない。どう考えてもトラウマがあるはずのない時点で、ひたすら、時が過ぎるのを待てばよいのだ。
 と、
 男は記憶旅行装置で目覚めた。
 それは見慣れた自室。装置が入っていた段ボールや梱包材が残っている。
「流石に、自分の部屋で八時間を三日は、きつかったな」
  

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