AI生成、ユートピア、サド、
…。は考え事。
認知度を上げる為に取り上げられているLGBTおよびギフテッド。そして何もしないおじさんという一風変わったレンタルやタイパ重視して倍速…要約、話題と話のために表面だけを掠めとる世代に、多発した強盗、梅毒といった治安の悪化と貞操観念の低下(というより表沙汰か、俗化な売春)、薬物に向けた軽薄な欲求、昨今から凄まじく成長を遂げるAI生成と追いつかない法整備にもはや頭打ちではないかと思われる資本主義にサブスクリプション。
私たちのような凡人は天才の足首を掴んでは同じ場所に立たせる事しかできない方法で、それを適正にするためにどんなより良い考えでも今ではちょっとした会話にしかならない(ヴァレリ参照)。だから、ギフテッドは一般的に見れば天才の一種なのだろうが今やAIの登場でそれは平均化した、するわけである。直感で扱える媒体を生み出した事よりも一般に普及させることに成功したジョブスを除けば天才といえる天才はいないよ。それに含まれたネットではあくまでも大勢の協力のもとで生まれたに過ぎない。だから、ギフテッドが取り上げられた理由は認知度の貢献であろうと本質から見ると中間的未来を仲介する役割を担っただけでしかないという見方も可能ではないだろうか。
民族でいうところの憑依された人間の一挙一足というよりも「そうなる身体』が、過去からの盲信で起こり得る伝統であり、細部に渡った尊重されなければならない神聖でもある。それは頭の穴を塞いで魂を出さないとすること、密教…。こうした憑依的なギフテッドが一般にも流通すれば長所は消える代わりに平均的な子供になれるだろう。ただしそれは後味がずっと続く人工甘味料としてだ。
AI生成からは可能性のユートピアを見出し得る。だけどもユートピアは搾取、自分らしさ(孤立することでこれは解決する)、過去がいないといったものでありながら幸福は優越の追求でなければ達成できるだろう。しかし人間の喜びは過程の見えない自然だからあり得た話…。過程の見えない…とはこの場合は自分たちができない、またやろうとも思わない、要するに見る者、待つ者、競争の中にいない。もし仮に競争の世界は無くなるなら…。感情移入もしくは欺瞞が念頭にある場合…。
ユートピアはフーリエ(彼には搾取の概念がないとベンヤミンは指摘する)、また近しいサド(たしかベンヤミンがそう指摘)の存在感もある。そしてそのサドは『悪徳の栄え』に登場するノアルスイユにこう言わせている。
可能性のユートピアは孤立が必然に迫られているという見方もできれば、なぜそのようにして媒体やメディアはLGBTを取り上げたりギフテッドを取り上げたりするのだろうといった疑問と同様にルッキズム、ポリティカルコレクトネス、そしてネットの半永久保存環境が生み出したキャンセルカルチャーが続出していたのは、そうして今流行りのタイパ重視はそういった神を選ばずに生きる選択をした人類の新しい(人類の)一つの予告を意味しているとわたしは思えて仕方ない。巨獣(大衆、プラトンの参照)でさえ今は逸れようとする(迷える)羊たちだ。そしてそれは阿片から目覚める民衆でもあるし、違法薬物(主に大麻)が流行る原因は罪悪感の消失(なぜなら、慣れてしまう為、そして慣れてしまう環境が現実や特にネット(では多いため…ある人間が大麻をやる原因でそうした大麻を肯定する本などを読んだらしい(犯罪性の容量…)。それと監獄の誕生、99ページで引用されているものを参照)
「菊と刀」によると、寄らなくても各思想を調べたことのある人間ならわかるが東洋と西洋では大きく精神の構造が異なる。それによると西洋は罪、東洋は恥らしい。実際、フーコーの監獄の誕生では心は犯罪抑制と見受けられる文章(それは引用でベッカリーア『犯罪と刑罰についての論考』1856年(出版?)から取られている)が、刑罰の穏やかさにある。あくまでも人間らしさを尊重とした近代…。
心は連帯感をもはや情緒ではない方法で産まれる。
規制ついては、しなければサドのような孤立者が溢れかえることになるのだろうか? しかしそれは他者への攻撃ではなくAIに依拠する形で欲望が孤立するとすれば、資本主義はどのように叩いてくるのか注目する点ではある。悪徳の栄えに登場するノアルスイユが嘲笑する言葉
新人類は眼を開けて異なる社会生活を行うだろう。
ユートピアは人間の願望を叶えられる欲望として叶えられる。その願望は性的でもアイディアでも…。ただし人間が用いる方法は性的の欲望が強いだろう。アイディアは、短絡の考えだから思いつかないのだろうがその時には無意味に近いものとなる。私たちは歴史の中でもう生きてはいない…。無意味は性的であるかないかで、つまるところそれには蒐集家の眼差しが当たらないだろうからね。蒐集家は文化的機会があるから存在できる…。蒐集家は死の兆候だが、ネットワークは第一線の収集家という見方もできる…。
尤もユートピアは最終的に叶えられない形で終わる。ユートピアはまず手に入らない事実で崩壊する。女のように美、可愛さを求めて化粧をして“自分追求メイク”をするならまだしも、あくまでも規範意識が重要であってでなければ概念のみを、失礼だがピートのような形で終了する形となりえる。これは憧れが絶対になければならない。性自認が女という男のそうした姿も元妻にとても似ていたからね。叶えられるなくても欲望がユートピアを連続に想起させる、たやすさ…。
あと喜びの共有とか見かけたけど無理でしょ。それこそ阿片に戻らなければならない。それはAIの規制が入ることがあっても元のような信仰心は絶対に戻ることはないんじゃないかな。快楽を覚えた人間は生涯それと関わりを持つように。喜びは今では滑稽からきているように見える。ヨーロッパのある風習について金枝篇には樹木崇拝で興味深い記述がいくつもあるから手に取って読んでみるといい。ことに喜びの花輪は良く資料として出てくるところと若い娘が花を配ったり子供たちが各家を回って祝歌を歌ってお菓子をもらうことは興味深い。子供は記憶からつながった太古を証明に語りださなければならない。ダライラマ…。籤…。超然とした態度は永遠の生(生まれ変わり)を信じるからだ。また彼の周りでは自然が活発となる…。
新人類はサドを宿しながら生きることになるかもしれない。規制、罪を軽んじて、罪悪感とは無縁の悪夢のような社会…。だから、規制入れなきゃまずいよねって話ではあるけれど、果たして最初に書いた今の人間にそれは可能でも元に戻ることはできるのでしょうかね?とは思う。最先端の限界が逆説にも権力という野蛮な槍で死ぬことは、市民の中では、あり得ない。ただし相互に安全性を図るという理性はある。だがAIがあいだに現れたらどうなるのだ?
また普段機械と睨めっこ(偏見)している人たちからは「自分らしさ」を追求できるとして「豊かになる」とも言われているがそれこそ孤立化だろう。それの自分らしさという言葉はあと何回聞くんだ? 詐欺師の常套句…。
AIは補助的であるべきといわれるがこれは無理な話だろう。なぜなら創作には新しさなんてなければ時代から脱却した新人類の目の前には瓦解した組み合わせの名残りという懐古しか与えないからだ。プロメテウス…。キリスト…。児童の読む物語…。
それに今の人間はそれらの文化を楽しむのではなく快楽的な感情移入および倍速と要約で終わらせる傾向がある。なろう系…。話題の為…。元々私はもう時代という時代は無くて、つまるところそれは文化であって、人が変化を感じる今は資本主義の欺瞞な循環に他ならないのではないかね。人工から豊かさを取り戻す方法は欺瞞的な悪循環…。
黄金時代の回帰は今まで身体性を搾取した産業から我々の肉体に回帰する。しかしそれは都合が良すぎる。資本主義ではない。何処かで規制がはいるのは明白だろうが、問題はそれが可能となったAIがあるその時の人間の精神状況だ。自分たちよりも優れて、努力なんてしなくてもすぐに(理想を?)可能とする機械があるという事実は拭えないのだ。だからもし規制するということなら、AIは全般的に規制されて軍事の他では一切扱われなくなるのでは。軍事と福祉…。生産性の止まった場所…。
AIに仕事を奪われるという気持ちは受け入れ難い技術、つまるところ保守的なのだ。最も問題なのはその保守がどの段階に含まれているか。そしてその段階はどのような段階なのか…人はどこで革新的になるのか。また海外に住む日本人の愛国心(回帰)を傾向を調べる必要がある。
性〔被害〕はAIで解決できるのでは? それは笑える、まるで多様性ピュグマリオーンの量産ですな。なぜ肉体を追うのか?たしかにバタイユのエロティシズムで雄は雌を匂いで追うという記述があった。
努力、未来すらもAIは飲み込み、その中で人類は新しく産まれる…。AIとは共存できない(なぜならそうなると人間と話す意味に疑問が生じるため。自然と話せるAIが生まれたらそれこそ他人の存在は無価値に近くなる…ただし肉体が考慮されていないしこれは極端)が、AIに隷属して生きるなら別だ。そして人は、狂気の名の元よりも権威に縋り付く習性から間違いなくそうなるんじゃないかと思うね。保守を批判する伝統破壊の風潮から人々は喜んでAIの靴を舐めるはずだ。資本主義…経済学…。人々は盲目になることで不安が消しされるとAIから言われたら平気でなるだろう。そうした不安の根源が伝統破壊して次は何を破壊するのかわからない不透明なそれであれば、次は人間だろう。何故なら人間は人間という諸悪の根源を抱えているのだからじゃ。否定的な妄想は、自ら戒する社会に忠誠心を持った理性で自殺。すると拡大自殺に従えば、その個人の自殺は理性的と見られ得るのなら、私たちは自分たちでお尻を叩く自虐に勤しむのじゃな。
今まで人間は罪をつくりお互いに自立した心という鎖を繋いでいましたが、そうした心の連帯感はAIによって箒のような形となるのだろうか。規制をしない場合、孤立者で溢れるのだろうか。欲望が孤立すれば資本主義からは需要が消える。すると供給する手立てはどのように行われるのかが気になるね。ひとつ考えられることはスマホは中にたくさんの資本主義者の生活資料を抱えているが、AIは中にそれを抱えていなくても生活資料を持っていることだ。だから補助であるべきや自立…生成はどちらにしても違いはなくて、人間はAIの中で異なる形として生まれ変わるのではないか、そしてそれが今度は共同体から剥がれる形となって、孤立者となって、だ。AIを規制することはできても一度可能になった技術の転覆は難しいだろう。まして資本主義の競争ではとても難しいだろう。あまりお金学には詳しくないから知らないで済ましたい。
犯罪の軽視…。お上の人々の悪事が暴かれ過ぎた結果、民間は自分たちもしていいという考えになっただけでは。単にそうして起こされた行動が権力のない暴力に移行しただけとも考えられる。正直細部までまともなものは今の時代にはもうありませんね。宗教くらいか…。対話的理性というものがあるけど指示役の下の人間はすると性善説から外れて性悪説に属するわけだ。リヴァイアサン…。戦争…。
老人への軽視もしくは生きている価値についてはとても好ましくない。生産性がないからといって、生きるということに価値をつけてしまうと自分にも跳ね返ってくるだろう。それと老人は道徳的な輪郭でいわば生き証人でもある。すなわち平和…。今の人は平和を嫌気して生産性という自分たちを苦しめる悪夢の中で、さらにそれを日常生活にまで拡大させいちいち生産性あり、生産性なしと値札をつけているのか?
以上。
最近気づいたことは夜型だったことの私個人からいうことは何もない。これらの文章はあくまでもそれが可能になるのではないか、では今までの物は何だったのかを過去から今へ繋ぎ合わせた行為の一種に過ぎない。それと投稿するにあたっていくつか消した。というと長すぎるため、あくまでも私用の備忘録としてであって共有や啓蒙ではない。なぜ投稿するのかというと面白い時代になりそうだからだ。…いざ投稿しようとすると躊躇する気持ちはまだ何か不充分な気がするからだ。しかしそこをAIが補ってくれる都合の良い時代が来ることはあっても、その実現が叶う環境ではこの文章を書く意義も生まれる意味もないだろう。すると矛盾するものも見えてくる。それはまず過去の歴史と結び合わせる今と合わせなくても済む未来においてだ。…
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