『奴隷の哲学者エピクテトス人生の授業』荻野弘之、かおり&ゆかりを読んで

最近の関心、哲学者エピクテトスである。
私は外の世界のテクノロジーとかにも関心はあるが、手も届かないし、理解も及ばない。
それよりも、自分の内的な充実、人間的成熟とはなにかとかのほうが気になっている。
正解などはないということはもうわかっているが、白黒思考の呪縛を抜けてもなお、自分探しの旅はやめられない。
確固たる自己など無いとわかった今、私という日々変化する面白存在を眺めているのだ。
エピクテトスの何に関心があるかというと、『隠れて生きる』というフレーズにまず引っ張られた。
私は、昔から隠居生活に憧れている。
飄々として、なにしてんだかわかんないけどソコにいるという仙人みたいな人間に憧れているのだ。
エピクテトスは表題にもある通り、奴隷として生まれ、足も不自由で、現代から見ても勿論、ローマ時代だったとしても恵まれているとは言い難い。
しかし、一見して何も持っていないように見えるからこそ、過剰に欲することも無く、自分次第であるものとそうでないものを区別して振る舞えるのだ。

『病気は身体の妨げではあるが、意志の妨げではない』
これは特に最近は感じる。
神経発達症で、社会に上手く迎合出来ず、鬱になり、現在、図らずも半隠居生活になっている我が身である。
無気力で動けなかったり、これまでの度重なる肉体の酷使のストレスからか、内臓系の不調であったり、湿疹だったりと、中々肉体の不調は続く。
肉体の不調は中々辛いものがあるが、それはそういうものだと受け入れて、こうなってしまったから仕方がないと思えてきた。
肉体はこんなだが、考えることも話すこともできて、側にいてくれる人間も居る。
インターネットという便利なもので、薄く広い繋がりをつくることもできる。

今は、こうなるようになっていたのだという気もする。
私も、私の体があのストレス過多状態に絶えられないことは気付いていた。
しかし、もう少し身を削ってでも、金を稼ごうとい欲望があった。
私を担保してくれるモノがないと不安で不安でたまらないのだ。
それ自体が一種の病的なものだったと今は思う。
薄々感じていた限界が、きたのが今ここだったというだけだ。
結局、不安や欲望に突き動かされていても、そこが居るべき場所ではないなら遅かれ早かれさよならすることにはなっていただろう。
私は居場所を求めていたのだと思うが、私がしがみついていた場所を離れても、社会の中に私の居場所はあった。
以前よりずっと心地よい。
そりゃあ客観的に見たら、あの人大丈夫?と言われるだろうが、私の精神状態はあの追い立てられていた頃より遥かに安定していると思う。
そういう私の変化を眺めてながら日々を過ごしている。
そんな中でエピクテトスの哲学は、学びを増やしてくれる最近のお気に入りだ。
何度見返しても、私自身が絶えず変化するので、再び発見がある感じで楽しい。


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