ただの女子高生 【黒歴史時代の短編小説】
「人間とは分かり合えない生き物である」と誰かが言った。日本人同士、同じ母国語を交わしているのに、46個の仮名と1945個の常用漢字によって作られた24万個もの単語から自由に選べるのに、何故か自分の気持ちも感情も言いたいことも、完全に相手に伝えることは出来ない。
***
僕は学校で孤立していた。話しかける男子は数名居るが、それは友達とは呼べない。彼らはいつも僕以外の友達と遊んでいる。それは僕自身が原因であり、分かり合えないから避けているのだ。誰とも会話を交わしたくない。どうせどこかで誤解が発生し、良い結果は生まれない。
高校3年にもなると、そんな僕を察してなのか、話しかけてくれる僅かな男子すら居なくなった。
「滝口君よろしくね」
それでも僕に声をかける人は居た。しかも女子だ。だがそれは当然のことであり、学級委員に僕とその女子が選ばれた、ただそれだけのことだ。
「よ、よろしくお願いします」
その女子、沢井亜季への第一声は敬語だった。女子と話すなんて滅多に無い経験であり、平静を保てず口篭ったのはごく自然なことだと思いたかった。
「ねえ聞いてよ。私、バドミントンのし過ぎで右手首痛めたの」
沢井は良く話す人だった。
「ちょっと大丈夫ですか?」
「イヤまじ無理。シャーペンもろくに持てないんだけど」
「じゃあ今日の書記は僕がやりますね。てか大丈夫ですか? 変な病気になっていないと良いんですけど」
「イヤもうなっているから、アハハハ」
「え、ちょっとちょっと……」
「皆様静かにして下さい。只今より第1回、定例委員会を始めます」
生徒会長の入室と共に会話は強制終了。週に一度の放課後、こんな感じで会議室に入ってから定例委員会が始まるまでの10分間、僕と沢井は会話を交わしながら座って待機していた。出来ることなら僕は無言で二次元の女子の妄想でもしていたかったが、沢井からどんどん話しかけてくる。
「滝口君カッコイイね」
ある日の委員会前、沢井は突拍子もないことを言い出した。
「え、ちょっと待って下さい。そんな事ないですよ」
「アハハハ」
それが冗談だとは分かっている。だがどう返せば良いのかが分からない。今まで他者との会話を避けてきたのだから当然だ。
そして、またある日。
「最近、中村と神谷うるさいじゃん。授業中もペラペラしゃべってさー」
「そうですね……」
「滝口君言えば? 大声で『ウゼー』って」
「イ、イヤ、それは無理ですよ」
「『ウゼーよ、静かにしろよ』って」
「イヤだから僕、その人たちに文句言ったら倍返しどころじゃ済まされないですから」
「冗談よー。滝口君面白いね」
面白い――そんなことを言われたのは初めてである。僕はつまらない人間だ。「つまらない」なら僅か18年弱の人生で何万回も言われてきたような気がする。そして今、同じ5文字でも真逆の言葉を言ってくれたのは他でもない沢井である。
「アレ、来週文化祭ですよね? 試験と被っているじゃないですか」
「それ先月の予定表じゃん」
「あ……」
「アハハハ、超面白い。え、何、狙っているの?」
「イヤ、素で間違えました。断じて狙っていません」
意図せず笑わせたことに最初は後悔した。面白くしようとは一度も思っていないのに、笑わせてくれる人という要らぬ期待を沢井に持たせてしまった。一方で、彼女を笑わせるのも悪くないなという前向きな気持ちも芽生えていた。そして次の週。
「滝口君可愛いね」
「ちょっと待って下さい。前はカッコイイって言いましたよね。どっちが本当ですか?」
「アハハハ、どっちも本当よ」
僕は少しでも面白い返しを心がけるようになった。客観的に面白いかは分からないが、とにかく沢井一人を笑わせることに全精力を注いだ。だがあくまでもレスポンスのみ。自分から話すことは決して無かった。
「友達とかでつまらない話ばかりする人って居ません?」
唯一僕から話題を振ったのがその質問だった。
「ああ、何人もいるよ」
「何でか考えたことあります?」
「え、え? どういうこと?」
やはり人間は分かり合えないという悲しい現実に時々気付かされる。今も例外ではない。
「イヤ、つまりその、何で話す前に面白いかどうか考えないんだろうってことです」
それでも分かってもらえるように、言葉を選んで落ち着いて話した。
「例えば僕、昨日駅前に泊めていた自転車が撤去されちゃったんですけど、誰にも話すつもりはありません」
「イヤ(笑いながら)面白いかもしれないじゃん」
「バスで塩浜ってところまで行って2500円払って自転車取り戻して、30分もかけて漕いで戻ってきたってだけで何も面白くないです」
「結局話しているじゃん、アハハハ面白い」
何が言いたかったのかというと、僕は必要以上に出しゃばらないという意思表示を沢井にアピールしたかったのだ。僕と沢井は辛うじて円滑なコミュニケーションを取れている。それは週1回の委員会で僅か10分間の会話をしているだけだからこそ成立している関係であり、それ以外の時と場所で僕らが話すことは一切無かった。むしろ沢井は他の男子や女友達と話しているときのほうが生き生きして楽しそうだった。そのグループに僕が入ることはカンボジアの地雷原を裸足で歩くことと同義であることは過去の経験から察していた。
***
人間が分かり合えないと僕が強く思うようになったのは2年前、中学の同期会が開かれたときのことだ。焼肉という自宅以外で口にしたことの無い高級品を貰ったばかりのお年玉で賄える会費だからと釣られて参加してしまったが最後、中学時代の僅かな友達が一人も来ないとも知らずに僕は誰とも会話をせず、黙々と肉を裏返しては口に運ぶ作業を繰り返すのみだった。
「滝口君もっと話しなよ。せっかく久しぶりに皆集まったんだからさあ」
ある女子の一言がきっかけで僕は口を開いた。どんな話題を何十分話し続けたかは覚えていない。ただ話しすぎて周囲が引いている場面だけが鮮明に脳内に刻み込まれている。話せと言ったのはお前じゃないかと思わず女子に怒りをぶつけそうになったが、僕の中に微かに残っていた理性のお陰で最悪の事態だけは免れた。だがそれがトラウマとなり今に至る。
***
なんだかんだで僕と沢井が学級委員に選ばれてから2つの季節が過ぎた。僕等は全く同じ関係をキープし続けている。
「ねえねえ聞いて。私やっと人生初の彼氏が出来たの」
彼女が夏休み明け最初の委員会で嬉しそうに話していたのも記憶に新しい。
「マジですか。おめでとうございます」
僕は悲観しなかった。沢井に対して恋愛感情を抱いたことは無いし、むしろこんなに可愛いのに今まで居なかったのかよという突っ込みが率直な感想だった。
「ああ、昨日また喧嘩しちゃった」
そして今、18回目の委員会を前にして、沢井はそう言うのだった。
「倦怠期ですか」
「もう次はぶん殴ってやろうかな。ふざけんじゃねーよって」
「本当にすみませんでした!」
「イヤ滝口君じゃないって、アハハハ」
当初は面白い人を装い続けることに苦痛さえ感じていたが、ネガティブキャラを確立してからは少しだけ楽な気分で会話出来るようになっていた。
「ああ、私の鞄落とした!」
「すみません、死んでお詫びします」
「そこまでしなくていいって、アハハハ」
事ある毎に過剰に謝った。それをいつしか意図的ではなく本能のまま出すようになった。それが正解かは分からないが、僕の素性に一番近い自然なキャラ設定であり、結果として沢井は笑ってくれている。
「皆様静かにして下さい。只今より第18回、定例委員会を始めます」
生徒会長の一言で僕等は無言になる。それは1回目から同じなのだが、最近になって僕はその間に心の中で色々と思うようになった。
(ちょっとやり過ぎたかな……そろそろこのキャラも飽きられるんじゃないだろうか……)
2年前のトラウマが消え去ったわけではない。僕はそろそろ沢井に嫌われるのではないかと危惧し始めていた。そして、記憶を封印していたはずのもう一つの、ちょうど一年前の悲劇も蘇るのだった。
***
僕は高1からずっと予備校に通っている。生徒は今もそうだが当時15人ほど居た。たった一度の遅刻で鬼講師に怒られて以来、毎回定刻より30分は早く来るようになった。その5分後にいつも決まって教室に入る一人の女子が居て、残りの13人がぞろぞろと訪れるまでのおよそ10分間、彼女と良く会話を交わしていた。つまり今の沢井との関係と酷似していた訳だが、相違点があるとすれば雑談は皆無、あくまでも勉強の相談のみ。僕の学力は彼女よりは良いほうで、10分間をフル活用し彼女は僕に勉強の分からない点を質問していた。
「ありがとうございます」
僕がただ質問に答えるだけで彼女は笑顔でそう言ってくれた。その笑顔に騙されていることに気付いたのは、彼女が両親の都合で転居する為に予備校を辞めると知った時だった。
「これから少しでも力になってあげたいので、勉強で分からないこととか進路のこととか何でも相談し合いたいと思いまして」
「イ、イヤ、いいですよ。札幌で優秀な友達をゲットしてその人に聞きますから……」
彼女はメールアドレスさえも教えてくれなかった。女の笑顔を信じてはいけないと知った17の秋だった。
***
「絶望のあまり温厚そうな講師に彼女の携帯電話の番号を聞いたんですけど、教えてくれないどころか怒られてしまいました」
「そりゃそうでしょ、何考えているのアハハハ」
何かの弾みで一年前の話を沢井に暴露してしまったが、とりあえずは笑ってくれた。これで僕の好感度を下げてしまった可能性も否定できないし、沢井のその笑顔を信じてはいない。イヤ、何を気にしているのだ。沢井にはもう彼氏が居るし、委員会以外では一秒も会話を交わさないのだから、嫌われたところで大した影響は出ない。それなのに何故僕は気にしているのだ。可愛いから? 本当にそれだけだろうか。いくら考えても答えは出ない。その時だった。
「3年生はそろそろ進路のことも気にし始めている頃かと思いますが」
生徒会長のその一言をきっかけに、これまで委員会の最中だけは常に無言を貫いてきた沢井が初めて口を開いた。
「あと半年かあ、卒業まで」
僕はやっと気付いた。沢井と別れるのが嫌なのだ。たった週1回の、たった10分の他愛も無い会話をするだけの関係の終焉を恐れていたのだ。600秒という短い時間も、18回も積み重ねれば3時間になる。その3時間で僕等は少しずつ、でも着実に絆を深めていた。盛り上がっている時に生徒会長の一言で中断され、あと5分長ければ良いのにと思う時もあった。珍しく沢井があまり話題を振って来ず、沈黙に耐え切れない僕が必死に話題を探すこともあった。そういえば沢井のメールアドレスも電話番号も知らない。ミクシィやLINEのアカウントも知らない。そんな文明の域に頼らず、僕は対面での会話という古き良き手段で、1300年以上も受け継がれてきた日本語という美しい言葉を、46個の仮名と1945個の常用漢字によって作られた24万個もの単語を使って沢井とのコミュニケーションを取り続けてきたのだ。
確かに人間は分かり合えない生き物だし、今の僕と沢井もおそらく例外ではないだろう。だがそんなことは関係ない。積み重ねてきた18回、延べ3時間の全てが、修学旅行や文化祭、体育祭など、何日も費やしたどの学校行事よりも素敵な思い出となっている。その理由はただ一つ。
――それを楽しんでいる自分が居るから――
残り半年。それを長いと思うだろうか。まだ半分もあるじゃんと喜ぶだろうか。少なくとも僕は違った。
その予感は的中し、あっという間にクリスマスが終わり、年が明けた。僕は初詣に一人で行き、バレンタインデーに沢井からチョコレートを貰うことも無かった。それでも週1回の雑談だけは変わらず続いていた。そして3月5日。
「なんか24日が入社式みたい」
「え、3月のうちに始まるんですか?」
沢井はコールセンターの事務への就職が決まっていた。
「てか滝口君まだ大学決まっていないんでしょ? やめてよ浪人とかするの」
「本当にすみません!」
僕は進学先が決まらず焦っていた。
「まあ頑張ってね。いつかどっかに合格できるよ」
「あ、ありがとうございます……」
別れが刻一刻と迫っているのに、お互いそれを口に出すことは一度も無かった。終焉を受け入れたくないから? 確かにそれもあるかもしれないが、それよりも残された短い時間を湿っぽくならずに最後まで楽しく乗り切りたいという想いが強いからだろう。委員会は今日を含めてあと2回、雑談はもう20分を切っている。だが来週の最後の回で別れの言葉を言うつもりは無いし、その2日後の卒業式に至っては一秒も会話を交わさないだろう。僕等はそういう関係であり、沢井はただの彼氏持ちの女子高生に過ぎないのだから。
「皆様静かにして下さい。只今より第39回、定例委員会を始めます」
そして僕等は今日も無言になる。
(Fin.)
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