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シュシュ 【#たいらとショートショート】

「先にお飲み物お伺いしましょうか?」

 背広をハンガーにかけ、ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外す頃、娘が注文を取りに来た。

「お前、何故ここに……?」

「あれ? 広沢部長、知り合いすか?」

「否、知り合いも何も彼女は……」

 突然の鉢合わせ。固まる身体と対照的に心が大きく動揺している俺は、同席の部下に上手く説明出来なかった。

「はじめまして。娘の広沢春奈です!」

 娘も最初こそ驚愕の表情だったが、すぐに笑顔を取り戻し元気良く挨拶をした。

「イエーイ!」「春奈ちゃーん!」「可愛いよー!」

 盛り上がる部下3人。一方俺は――。

 ***

 20年前、分娩室から娘の産声が聞こえてきた時、俺の目には希望しか見えなかった。物心付く頃には仕事終わりで帰宅する俺を毎日出迎えてくれた。一緒にテレビを観て笑いながら食べる夕食は美味しかった。娘を真ん中に、妻と3人で手を繋ぎ歩くだけで幸せだった。

 しかし、娘が中学生になる頃には、そのどれもが無くなった。高校生にもなると会話も無くなり、情報は妻経由でしか入らなくなった。大学2年の今、アルバイトで帰宅が遅いことは把握していたが、仕事の内容も勤務先も知らなかった。

 ***

「生ビール」「俺も」「じゃあ私、ファジーネーブル」

 部下3人が矢継ぎ早にドリンクをコールする。娘はずっとハンディー端末を操作しており、一度も俺と顔を合わせようとしない。

「部長も生でいいすか?」

「………」

 俺だけ顔を俯き無言だった。来年50歳。惰性の仕事とマンネリの家庭をループするだけの日々。過去に何を残してきたのか、今は何をしているのか、未来に何を生み出そうとしているのか。虚無で抜け殻で、心に大きな穴を開けている今の俺が答えだ。

「……早く決めて、お父さん」

 トーンが素になった娘の声を聞き、俺は顔を上げた。やっと目を合わせてくれた娘の髪には赤いギンガムチェックのシュシュ。それは妻が妻になる前、アルバイトで髪を結ぶと聞いてプレゼントしたもの。洗いすぎて少し色落ちしている。

 思い出した、娘があの頃の妻にそっくりであることを。娘が生まれた時、20年後に妻のようになれば良いなと淡い期待を抱いたことを。一つだけあったではないか。俺が残したものが、この先も受け継がれるかもしれないものが。

 まだ娘と笑い合える関係に戻れてはいないが、永遠に守りたい笑顔で接客する姿を見届けるだけでも今は幸せだ。

「ご注文はいかがなさいますか?」

(996字)


#たいらとショートショート


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