64.枯れんのと腐るのとはちがうって

枯れんのと腐るのとはちがうって、、という言葉を想起するようなひとつのタイミングを、心理的になぞったとき(ナゾって謎のほかになぞるってあるか)、誰もが経験できる内容を抽出すると、以下にひとつ
 陰謀と現象分類にかんして、陰謀の現象範囲と現象の陰謀範囲との反転といった条件へのさしかかり。これは陰謀からではない邪さが陰謀的なあらわれをむしろしてしまう条件の時に、対しての陰謀側の邪さがむしろ現象的な規模になっているケース。これをおもうときに、陰謀側はたとえばその現象側の根にある影に逆らったという場合には、この段落においては現象側の陰謀的悪がある意味で上回ってしまうような見かけによる。枯れるのであれ腐るのであれ、共に共通して朽ちるべき悪徳を示している部分があるとしても。または、現象的な側のその決定的な場面で問われる不実性といったところでの対象が、人間的であり未的なものなのかどうか、などなどあるだろうか。
 <『承認欲求からの善』というリスク>という言い方でのテーマをおくるが。決定的なタイミングにおいては、むしろ問題になるケースを書きたいのだが。これが、普遍的な実現に対しての不信とか不当な優遇というあるしゅのなれあいというきぼのリスク。こう。

ハナとイロとホシ、という感情の質のようなセンスをみていくが。イロという実態のネガティブポジティブの扱い方はけっこうクリアにあらわれたりもする。表現にも正当と不当があり、ととのえられたイロの表現なのかどうかとか、を判断できないのだ。
また、判断する気がなく、テーマになったときにはすべてのイロが不正だという輪郭を社会形成し出すといったありかたになるのは、うとんでいたのなら当然なのだろうか。
いずれにしてもそれは客観的なことではなく、主体的な形成に自信が手をつけているということであり、心理をつけているという言い方の方がわかりやすいだろうか。

二者での進行というのは、全体性を維持するものと個人的に進行するものとの共助でつくられることもある。
全体と個人にはさまれた条件があるのだ。

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