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人生の棚卸し 中学生

今回は中学3年間の棚卸し。
私は描きたいことが多いと長くなってしまうので
中学はポイントを絞って自分の中で棚卸しをしようと思う。
27年間生きてきてどこが楽しくなかったかと聞かれると中学だ。
家族にもたくさん迷惑をかけていたことも事実だ。



・いじめ、家族とのすれ違い

中1の記憶はいじめ。
元々、大人数が好きではなく多くても3人くらいで遊ぶのが好きだった。
1度好きになるとずっと同じ友達と遊ぶばかり。
その子が他の子と仲良くしてると取られるんじゃないかと不安になる。
私の中学校は小学校2校が1つになるので学年が6クラスほど。
人見知りもあり別の小学校の子と仲良くもなるが結局、同じ小学校の友達となんなら同じバドミントン部の友達とずっと一緒にいた。
帰りは4人でいつも話しながら帰っていた。
最初は皆仲良く、毎日ふざけながら恋バナもしながら楽しかった。

私は経験者ということもあり部活の団体メンバーにすぐ選ばれた。
私は当然だと当時、驕っていた。
この時、素直に出来ていればと思うが、周りは気に入るはずがない。
1個上の先輩と団体でペアを組んでいたが
練習や試合以外では無視をされていた。同級生からも。
1番仲が良かった子は先輩がいなければ話すが先輩がいる場面では
私を無視することが当たり前になり、聞こえるように悪口を言われる。
ペア練習をしないといけない時も勿論ペアはいない。
3年生の最後の団体戦が終わってから部活の友達と関わらなくなった。
あんなに好きだったバドミントンもやらなくなった。

この頃、母親は遠い場所の職場に車で通って毎日22時過ぎに帰ってきて朝は6時半にはもういない。相談しても出来なかった。
私は父親にはバドミントンをやりたくないこともいじめられていることも言えなかった。
甘えるな。とか逃げるな。と現実しか見せてこない父親に嫌悪感。
助けてほしいのに居ない母親にも嫌悪感。
2人が話していると言えば兄の話ばかり。
私には関心がないんだと。家に居場所がないと思った。
誰にも助けてと言えない。強がりな性格は大事な時に悪さをする。


・不登校、転校

中2に上がってから一個上の先輩の最後の試合までは部活に行っていた。
お世話になったのもあったのとメンバーだったからもある。
それ以外は行かなくなっており、学校も休むように。
よく行こうとすると気持ち悪くなると言うが本当にそんな感覚。
今日は行こう、今日は大丈夫と言い聞かせる。準備は出来る。
母親は絶対行きなさいと言う。父親は何も言ってこない。
親の立場を中2の癖に気にして一応行くがずっと休んでいた人が急に来ると心配よりも好奇な目で見られるのが10代だ。
その空気が耐えられず教室ではなく保健室、次第に不登校に。
私は大好きだった母方の祖母に
祖母の家に行きたい、家を出たい。
と、毎日泣きながら電話をしていた。
これは向き合うことを辞めて逃げたかっただけ。

夏休みの時、母は私を精神科に連れて行った。
意味が分からなかった。
私はおかしくないのに!なんで?こんな感情しか回らない。
母に対する怒りや反感。私がおかしいんだろうか?
(母は私を思ってだと今は分かる。)
その時不登校のカウンセリングをしている先生が家に来る
母と私はその人に会話をすることで徐々に落ち着いてきた。

先生のスクールは否定が無く肯定される世界に少しずつ自分の気持ちを言えるように。
母も誰かに頼らないときつかったと思う。

私は学校は行きたいが家には居たくないと。はっきり伝えた。
この時も我儘で環境から逃げた。
そして下関から、母方の家がある萩市の中学に転校した。
祖父母と3人暮らし。中2の2学期から転入した。
転校初日、あまりにも明るくて少し浮いていた。
今考えるとまぁ我儘な転校だ。
ただ私を知らない人しかいない環境に飛び込むと
自然とワクワクしていた。生まれ変わった気分だった。
バドミントンもまたしたかったが部活が無かったので
昔していた陸上に。ここで走ることの楽しさとまた出会う。


・家出、友達、高校受験

中3は表現することに必死な印象がある。
祖母とは毎日のように喧嘩していた。
私は屁理屈を言うし、祖母は昔の時代はこうだ、ああだ。
最終的には親が教師なのにお前は何でそんな生き方なんだ。
親に迷惑をかけるな。これの繰り返し。
この頃から私がよく思っていたことがある。

私の人生なのに親の為に生きるのが正しいのか?
原本彩という1人の人間ではなく
原本先生の娘というフィルターを通して大人は見るんだ。

余計に大人が嫌いになりその時は同じ境遇の友達が居てくれた事が
唯一の救いだった。1人じゃないと思えた。
男女合わせて8人くらいだっただろうか?片親だったり親が公務員で
上手くいってなかったり、皆自分の気持ちを素直に言えず反抗するという行動でしかアピールできない似た者同士でほぼ毎日一緒にいた。
他中の男友達と同中の女子でよく家出していた。
家出といっても1、2日帰らない程度だ。
寒い冬でも皆で公園に集まり煙草を吸って何でもないことを話す。
それで楽しかった。
その中の1人と1年半付き合っていたが
その子の親が美容師で興味のきっかけになった。

家出を繰り返す中で勉強もまともにしていなかったが
高校をどうするかの選択がやってくる。
勿論反抗があって高校は行かずに働くと言った。

友達と毎日話して、たむろしてそれで幸せだと思っていたが
仕事ができる事がないと急に人生に不安になり
周りと話して2学期が終わる頃に高校に行くことを決意。
その時の学力と態度と時期でいける高校は1つしかなかった。
ほぼ島根県寄りの農業高校に志願した。
あんだけ反抗していた友達と面接の練習を必死にしたのは良い思い出。
勿論付き合っていた彼氏も同じ高校を志願。
その時の男女グループで絶対受かろうと毎日勉強を始めた。

書きながら思い出したが受験日の二日前まで当時の彼氏と別れており
私のメンタルはどん底だった記憶がある。
かなり当時は執着していたのでよりを戻したかった。笑
受験の前日に相手から話があると言われよりを戻して
受験当日も会えるのがただ幸せだったのを思い出した。
他にも人はいるのに恋は盲目とはまさに。笑

受験結果は私と女友達だけ受かり後の6人は不合格。
別々の時間を過ごすことに。


振り返るともっとたくさんの事があったが
大きいイベントはこれくらいだろうか。
私は学生時代、自分の感情をはっきり伝えすぎるし顔にも出やすく
万人に仲良くなれるタイプではなかった。
昔からある程度出来たからこそ母親からは特に
さやちゃんはできるよね。大丈夫だよね。

この言葉を言われることが多く気付けば大丈夫じゃないのに
そんなふりをして強がりが一方通行していた。
素直に甘えていたら、言葉に出せていればと後悔しても
もうあの頃は戻ってこない。
転校したのもあり下関での親友は1人しかいない。
それでも今は全然寂しくない。
1人でも親友が居るだけで人生は豊かであると胸を張って言える。

中学の自己理解
・感情表現が苦手、出る時は爆発している
・人を信用することが怖い
・親に対する不信感、嫌悪感
・肯定されたかった、1人の人として見てほしかった
・やると決めれば勉強の集中力はあった
・新しい環境に怖がらなかった
・逃げることを選んだ自分を当時は恥じていた
・集団の中での協調性が欠けていた。

美容室でお客様と話をしている時、私と似たような状態のお子様がいることをしばし聞くことがあった。
その度に、母も誰かにあの時話せていただろうか。
教員という立場を気にして言えなかっただろうか。

ふと考えて胸が痛む。
母の方が何倍もきつかったはずだ。ごめんね、とたまにふと伝えてしまう。急に何?と笑うがなんとなく察しているのもお互い分かっている。

学校に行けない学生さんを接客している時は私のこの話をする。
大丈夫だよ、仕事出来るし今生きてるんだから。と
その時は死にたいくらい人生に絶望していたが
とりあえず生きていくこと。これだけでもすごいと私は思う。
そして誰かにきつい。と一言伝えること。これだけでいい。

家族じゃなくてもいい。友達じゃなくてもいい。
誰か1人肯定してくれる人に伝える勇気があればいい。

その頃はこんな風に記事にして気持ちを表現することはなく
よくノートに殴り書きのように感情を書きまくっていた。
いじめの事を思い出してキーボードを打つ時泣いてしまう。
私は嫌な記憶に対してまだ免疫が少ないみたいだ。


今回も私の棚卸しに最後まで付き合って頂きありがとうございます。
皆さんはどんな中学生でしたか?

次は高校の棚卸しで。



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