応援

応援を真剣にしたことがあっただろうか。

記憶を探る。あった気もする。体育祭のチームの走りを応援した。水泳のリレーで仲間を応援した。
確かに熱をもって応援した。

だけどなぜだろう。応援したことがない気がする。いや、逆か。応援で励まされた記憶がないのだ。

応援は励ますためにやるものだ。自己満足のためかもしれないが、名目上は励ますためだ。
奮起を願って、健闘を祈って、前に進む力を与えられるよう必死に何かを伝えるものが応援だ。

受け取ったことは多分ある。応えたいと思ったことも多分ある。
ただ、それがあったから頑張れたかと聞かれるとそうでもない気がする。どちらにせよやらなければならないことはやった気がする。それか、直接の応援とは別の何かに励まされた気がする。

頑張れと言われて頑張れるほど単純だったら楽なんだ。
それだけで頑張れる理由が与えられるなら、救いだつた。
応援も真摯にできただろう。そんな素晴らしいものだったら全力でやろう。喉が擦りきれるまで叫ぼう。

でもその力を信じられない。結局一人で理由を見つけ、一人で奮起し、一人で道を開拓していくしかない。立ち止まってしまえばそこで終わりだ。


動悸がして、視界が滲み、息も絶え絶えでも、暗い世界に聞こえてくるものはない。精々表層でなっている音を拾いに行くくらいしかできない。
そこで拾った音を抱きしめるくらいしかできない。

応援に意味がないとは思わない。応援はそんな音の欠片を向けてくれるものだからだ。ただ、届くには受け取りに行く必要がある。
伝えるだけでは伝わらない。

今は、誰かのための欠片になれる余裕はなさそうだ。

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