「近代社会での生とは何なのだろうか。


人間の自由意思の尊重だと言いながらあらゆる価値観が押し付けられ、最終的に自ら生を絶つものまでいる始末。


 『夢』などという不確かなものが他者を推し量る基準にもなり、人々は求められるがままにそれを求める。敢えて言うとするならば、夢など自己の肉体的精神的保存が全てだろう。

 常に他者からの評価にさらされ、望んだわけでもない競争社会の中に巻き込まれていく。各人の特色も度外視で、当てはまらないものはとことん排除されていく。

 やっと安定したと思っていても、他からの干渉により容易にそれは崩れ去る。それで絶望しようが、他人にその絶望を正確に把握することも出来ない。『もっと不幸な人もいるだろう』という抑圧を自己で行う他なく、そんなものが役に立つのはごく少数の人間だろう。

 絶望は自己消失の欲求や、原因への憎しみへと発展し、結果的に私を厭世感へと追いやった。


 人間が社会を自ら退行させることは考えにくく(弁証法的に発展した先に原始時代が待っているのなら別だが)、この生活は続くのだろうか。否、絶望的な社会など破滅させるか変えるかすればいい。不可能だと感じたなら、またその時思考をしよう。取り敢えずこんな底辺社会では生きたくない。


......といいつつ、明日は競争の一端である受験 をすることを選択してしまったがために、意味をそれほど感じない試験を受けてきます。」

2024年2月24日に書いた文章らしい。まだ何となく希望が見える点に若々しさを感じるが、概ね考えが変わっていないのは感心しないこともない。

この受験にはしっかり落ちたというのがまた滑稽だ。

ワードチョイスとして、絶望という言葉を安易に使わなくなったこともあり、このような文章は多分もう書けない。そういう意味では、その時々の思いを書いておくのは大事なことだとは思う。

過去の自分ですら、別人なのだ。

生は日々断絶している。そうしておくと、生きやすい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?