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創作モードと現実モードとその変換、とうちの子

今日も創作の記事を上げます。
なんで急激に創作の記事が増えたかって?

はは、雪猫は単純なのでね!(知ってる人は知っている理由)
それでは行ってみよう!!



本日のご挨拶

おはようございます雪猫なえです。最近またnoteの調子が上がって記事を量産できているので良い感じですね。調子が戻ってきました。誰のお陰でしょう、何のお陰でしょう。珍しく検討もついているんですよ。

今日はあずきバーを久しぶりに食べたんですけど、久しぶりに食べると美味しいですねー!「いや久しぶりでなくても美味しいよ!」ってツッコミはちょっと待って下さい。謝罪します。

あ、そういえば友人から「当たり前を書けるって凄いね」みたいなことを言われたんですが、「そ、そうかな?」と思いつつもめちゃ嬉しいですね。
自分の中の当たり前に価値を見出すのっって心身共に(?)色んなリスクがあるのですが、それができるのは強いことなんだろうなぁと思います。(雪猫がその能力に長けているよって言いたいわけではないですよ?)

最近また暑くて本当にやめてほしいです。ノーモア暑い。(言葉のセンス)
ここに来て最後の粘りとか要りませんからぁあ!!!

はい、余興はこの辺で。



創作モード

もう両者共に名前のまんまなんですが。
創作モードは創作作業用のための脳みそになっている状態をいいます。

アイデアがわんさか(言葉遣いよ)湧いてきたり、意欲が高まったり、わくわくうきうきって感じの感情になったりします。

まぁ、アイデアが流れすぎてまとまらなかったり、アイデア出しや整理だけで終わってしまったり(気力体力時間共に尽きることがしばしば)するんですけどね(笑)

創作モードは、ある日突然なるころは少ないんですよ。こう、数日かけて徐々にゾーンに入っていく感じです。モーニングページの効果の現れに似てます。(あ、「モーニングページ」を知らない方は気にしないで下さい)
なので、外出禁止期間のMV制作や友人達との会話を機に、最近創作モードに突入してい(る気がし)ます。

noteでは記事の数が顕著に増えたりテンションが高かったりするのでわっかりやすいことこの上ないですね(笑)



現実モード

現実モードはもうちょっと抽象度が下がってわかりやすいかもしれません。勉強や仕事など、「ToDo」に向き合う気力があるって言えばわかりやすいでしょうか。

もっとわかりやすく言うと、「嫌な」ことに向き合う気力がある状態とも言うかもしれません(笑笑)

このときは、どきどきわくわく~って感じではなく、冷静に落ち着いてって漢字になります。あくまで自分の体感でしかありませんが。
そして現実モードの出現率は低い上に持続力がないんですけどねー。(おいおいおーい)

昨日の昼も、ちょっと狭まりゾーンに入り込んでしまって、ハッとした瞬間に慌ててPCを閉じましたね(苦笑)
そういう、気分が落ち込むときに連絡をとれる友人は本当に救世主というか神というか。(言葉言葉、フランクになりすぎじゃ)
でも病みがちな時間帯ってなぜか多くに連絡が取れなくて(泣)
LINEくれた友人に泣きつくのはいつものことです。知ってる人も多いんじゃないかな(苦笑)いつもご迷惑かけてすみません。(反省)



使い分ける

で、上記の説明を受けた段階で、恐らく「え、現実モードいる?」って思うかもしれません。

いるんですよ、案外あなどれなくって。

創作モードにずっといると、インターネット脳っていうのが個人的にしっくり来るのですが、だんだん視野が狭まってくるんですよね。あーいや、創作モードに限ったことではないでのすが。

この狭まりに嵌まってくると、数字に目が行きがちになったり、自己肯定力が下がったり、モチベーションが下がったり、頭がスッキリしなくなってきたりします。
要するに、その界隈の中で全然ちっぽけな存在の自分に囚われてくるんですよね。こうなったらもう全然楽しいなんてはずがないので、一回界隈を抜ける必要があります。自分の精神衛生を良い状態に保ちたければ、ですが。

プロになる、つまり職業にするとこの「逃げ」ができなくなる気がして、「好きを仕事にする」ことに対して純粋な憧れを抱けない節があります。もっとも、雪猫にはプロかアマかの選択をできるほどの能力がそもそもないですが(笑)

で、変換の話ですよ。
そういうときは、逆に現実モードに入れたりするんですよ。一個大作を仕上げて完成品をアップした後もそうかもしれません。一通り創作だけに没頭すると、満足したり、燃え尽き症候群的な状態になったりするので、電池フル充電って感じで現実に向き合う気力が湧くんですよね。

何事もほどほどにってことですね。



そしてうちの子

一次創作界隈に生息している民なら馴染みが深いかもしれませんが、雪猫もうちの子民です。(自分で考えたオリジナルキャラクターを「うちの子」と呼び、自分を「親」と呼ぶ文化です。抵抗のある方で不快にさせてしまったら申し訳ありません)

創作モードで息が詰まりそうな思いをしたとき、自分のしょーもなさに泣きそうな気持ちにまったとき、うちの子を思うとホッとできます。
気味が悪いかもしれませんね(笑)でも雪猫にとって創作は、うちの子は、心の支えで、人生の中で結構支えられてきました。

あーこりゃこの記事も長くなるわ。語り入りそうなので斜め読みで十分だと思います。多分以降その理屈を語るんだと思います。

うちの子っていうのは唯一無二かつ自分が本家になれる代物しろものなわけですよ。これが二次創作にはない良さだと思っています。自分が絶対な、「自分ワールド」「自分の箱庭」なわけです。(二次創作リスペクトの記事も今後書く予定です)
そう思うと、絵がどれだけ下手くそでも、凡人でもそれ以下でも、何者にもなれなくても、有名でなくても人気がなくても、それでも、そんなちっぽけな存在でも、「この子達」を描いてあげられるのは自分だけだし、「この子達」の「正解」は自分なんですよ。自分より遙かに上手い人がその子を描いてくれても、公式は自分で、自分の絵柄で自分で描いたその下手くそな絵が「正解」なんですよ。

ざっくりわかりやすく言うと、うちの子は自分の創作の肯定の具現化なんです。肯定そのものなんです。そういうことなんだと思います。

だからうちの子のことを考えると、資料を見ると、どんだけ反応がなくても、認められなくても、上手くなくても、それでもこの子達を動かし続けるために私は作ってていいんだって、そう気分が晴れる気がするんです。
私が帰ってくる場所がある感じなんです。
(……もしかしたら、この記事はまた別途書いてもいいかもしれませんね)



終わるのですが

雪猫、文章を大仰に書いているとか話しているとか思われてないかなってふと不安になるんですよね。

全然大仰に書くつもりなんてなくて、思ったままに綴ったり、自分の思考に没入して考えを深めようとすると結果的にこういう回りくどいような大袈裟な書きっぷりになってしまうんですよね。

嘘偽りはないですし、文字で「こういうこと?」って言われても「うーん、ちょっと違う」って言っちゃうくらいには自分の感覚を書き記しているので伝わらないというかそもそも忠実に伝える努力をしているのかと言われたらすみませんと平謝りするのみですが……。
ちょっとネガティブ入ってますね。いかんいかん。

自分が真剣に深刻に悩んでいるのに、それに少しも寄り添われずに「え、それってこうこうこういうことってだけじゃない?」って言われるのって、悲しいんですよね。
まぁ、それに助けられるってこともあるんでしょうけど……割合としては前者が圧倒的に多いです(苦笑)
「お前壮大に考えて浸ってってけど大したことねぇーからぁー!」って言われてる気がしちゃうんですよね。被害妄想が過ぎますね(笑)


それでは今日はこの辺で。また。

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