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自分軸と他人軸の癒着

自分軸で生きていますか?
自分軸で生きなければいけないとよく耳にしますがそうなんでしょうか?

なんか、恐らくそんなお話です。



本日のご挨拶

こんばんは、雪猫なえです。
今日は夕方の執筆になってしまいましたが、ぼちぼち元気にやっています。もう少し体力が欲しい、とは思いますが。

今日は皮膚科に行ってきました。前回行ってから結構経ってしまいましたが、やはりその医院の先生も看護師さんも優しい人たちばかりで、ここ最近の不安・悩み(アトピーの悪化)が紛れました。薬局で薬を貰って任務完了です。ずっと「行かなきゃ、行かなきゃ」と思っていたのでスッキリしました!

帰ってからはかなりほうけてしまいました。やるべきことに着手できず、仕事再開の時間になってしまいました(苦笑)。それでもまぁ、まだ余裕はあるので、ここから先で挽回しようと思います。

ちょっと嬉しい連絡も入りました。いえ、吉報というわけではないのですが、後輩から相談のLINEが来て嬉しかった、という話です。
頼られたい欲求が強い雪猫ですが、上手いアドバイスはできないという残念な奴です。それでも、少しは役に立てていたらいいなと思います。頑張れ、後輩君。そして雪猫も頑張れ。
人をしっかり頼れる彼はやはり凄いなと思います。

それではこの辺で本題に入りましょうか。



自分軸

「自分軸」と頻繁に耳にしますし、耳が痛いくらいにアドバイスされるのですが、そもそも雪猫「自分軸」にピンときていません
それは、雪猫の自分軸が他人軸と大きく癒着しているからなのではないかと最近思いました。

定義で言い表すのであれば、「自分軸で生きる」とは、自分の欲求に誠実であることでしょうか、自己決定を徹底することでしょうか、自分の視点で物事の善悪・是非・正当性を判断することでしょうか。



他人軸

他方「他人軸で生きる」を同じように言い表すならば、他人の考えを基準として自己決定を行うことでしょうか、他人の顔色を過度に窺うことでしょうか、他人の評価を過度に気にして身の振る舞い方を考えることでしょうか。

そういうことで合っていますかね?



癒着

でも、本当に本当に細かい話になってきますが、この境界線ってどこにあるのでしょうか

例えば、自分の願いが他人にあったらどうでしょうか。つまり、他人の幸福が丸っと自分の幸福になる場合です。あとは、他人抜きでは叶えられたい夢がある場合はどうでしょうか。もしくは、自分に誠実である方が苦痛である場合です。

上に挙げた具体例に首を傾げる人もいれば大きく頷いてくれる人もいるんじゃないかなと思います。「んーっと、そんな場合ってあるの?」って人もいれば「わかる、そうなんだよね……!」という人もいるかと思います。



雪猫の場合(自分語り)

noteは基本的に自分語りかもしれませんが(笑)。

雪猫は、自分軸がないとは決して言いませんが、他人軸に寄っかかっている部分も結構ある気がします。
「他人の幸せが私の幸せです……!」という綺麗過ぎるくらい綺麗なことを言うつもりはありませんが、割とこだわりがないんだと思います。特に仕事に関して(それは雪猫が人生においてまだ仕事に重きを置いていないからだと思いますが)。

でも、他人が喜ぶならそっちでいい、という判断は頻繁にします。大きい決断から小さい選択まで色々そりゃありますがまぁ、これも他人軸、と言えなくはないんだろうと思っています。

特に雪猫なんて恋愛体質なので、他人がいなきゃ人生で重要視している夢(=恋愛での幸福ゲット)は叶えられません。
恋愛(=他者との関わりの必然性)を「軸」の話に持ってくるのはちょっと違うのかもしれませんが、自分の軸一本だけでは満足できないパターンがあるというのは事実じゃないでしょうか。だから、自分軸が立派に立っていないように見えても、そこまで「駄目なこと」ではないと思っています。



善悪

これが最後の項目なのですが、そもそも「自分軸で生きなければいけない」のでしょうか

「正解なんてない」今の世の中は、自由なようで、逆に生きにくいところもあるように思っています。雪猫は文系ですが、「正解」があることのなんと楽なことでしょう……!という側面も否定できません(よく理系と文系でこの話出ませんか笑?「だって数学は決まった答えが出るもん!」という人と「答えがないから楽しいじゃん!」という人、これって議論は平行線なんでしょうかねぇ……)。

「生きやすいように生きる」ための自分軸であるならば、それがむしろ苦痛だという人は自分軸を無理矢理構築する必要はないのかなと思います。



補足①:一人でも立てるように

「自分軸」が推奨(?)されているのは自立を推奨(?)するからだということで理解している雪猫です。生きていく基準が、変えることのできない他人でだとその不変性によって自己の幸福入手確率・確実性が低くなるから、自分軸で生きろ=自分自信で自分を幸せにできるようになっておけ、ということだと思っています。

でもやっぱり、自分一人では生きていけませんし、自分一人じゃ叶わない(恋愛や友情やビジネスもかな?)夢もあるでしょうし、なにより「まだ自分のやりたいことがない」なんて人もいるだろうと思います。
そんなときは、これまた「無理せず」他人軸に寄りかかっていてもいいんじゃないかなぁというのが持論です。
完全に他人軸で生きることは結構辛い思いをするかもしれないなぁと思いますが、一時的に他人から主軸を借りることは悪くないと思います(勿論迷惑をかけなければですが)。

あと、人生全体を通してずっと他人軸でいたって、それはそれでその人の「自己決定」なので誰も口出しできませんよね(そう、これがさっき言った「正解がない」ことの難しいところで、なんでも結局「自己決定ではある」という結論に帰着しかねないんですよね)。
他人軸で生きることによってその人が不幸になろうと苦しもうと、(その人が不幸になってほくない場合は話が変わってきますが)勝手ですし、他人事なので、まぁ、仕方ないの一言しか言えませんよね多分。



補足②:主題

「自分軸で生きなきゃだめだよ!」ってつまりは「自分で考えて自分で決めなよ?」ってことなんですよね?

思考放棄をしないで、他人に全判断を委ねていると後悔するよ、自分の杓子定規で考えて自分で決断しなよ、そういうことなんですよね?

だから、まぁ極端な話、大抵の人はきっと自分軸で既に生きてるんじゃないかなと思います。究極論、自立して生きてるだけで自分軸で生きてるってことになり得ると思っています。
反対方向に極端な場合を防止するフレーズなのかなと思うこともあります。依存症ってやつですよね。本当に、大袈裟ではなく文字通り「他人がいないと生きていけない」っていう人、それはちょっと危ないよねっていうことでもあるのかな、と。反対解釈っぽいですが。



補足③:程度問題

なんか補足がどんどん増えて、「善悪」が全然「最後の項目」になっていないですがよければお付き合い下さい(苦笑)。

何事もそうですが、結局のところ程度問題なんでしょうね。
「程度問題」なんて言い出したら本当、哲学のように(哲学のなんたるかも知らない雪猫が言うなという感じですが)キリがない話ですが。

「どれくらい『自分軸で生きる』か」っていう話だと思うんですよね。
ある程度他人のことを考慮した上で自己決定を下す「自分軸」なのか、
自分のやりたいことが明確にあってそれを達成するための「自分軸」の行使なのか、
他人に貢献することそれ自体が自分の「やりたいこと」なのでそれを踏まえた上での「自分軸」なのか。
まぁそんな感じでしょうか。

そして、「どのくらい『自分軸』で生きるか」を決めることも結局「自己決定」という。なんだかややこしい話になってきますね。



閉じます

今日も今日とて語りましたねぇ。なんかぐだぐだ回って屁理屈をこねている感覚にもなりますし、手を変え品を変え同じ事を延々喋っている感覚にもなるのですが、言い換えに関しては立派な技法になると信じて、まぁ大目に見て下さい(苦笑)。

本日も閲覧ありがとうございます。


それでは今日はこの辺で。また。

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