見出し画像

私と日月護身剣①

「先ほどの年若い蔵人くろうど、そなたを好いておるようだ」
望月もちづきの夜、日月護身剣にちげつごしんのつるぎが私に声をかけました。
「まあ」
私は両手に掲げた御剣みつるぎを落としてしまいそうになり立ち止まります。
蛙の鳴き声と単衣ひとえのきぬ擦れ。遠くには女房にょうぼうたちの話し声がぽつぽつと漏れ聞こえます。
いつも通り、静かな後宮の夜でありました。
日月護身剣にちげつごしんのつるぎの言葉もまた、いつもの戯言ざれごとでございましょう。
「はて、わずかに言葉を交わしただけのものです」
月が照らす渡り廊下を私はすり足でゆっくりと歩きます。
「では明日の朝、あの蔵人くろうどの顔を見るがいい」
日月護身剣にちげつごしんのつるぎは楽しそうに言いました。
わたくし、色恋にかまけている暇はございません。はやく一人前の女房にょうぼうにならねば。父君も母君も、もうおりませんから」
「ふん。そんなつんけんした人生、つまらないじゃあないか。愛するものに出会う喜びは如何様いかようにもかえがたいもの」
文句まじりの御剣みつるぎの言葉を流して、私は帝の寝所に向かいます。
御剣みつるぎよ、夜の御座おとどに参りました。今宵も御帝おんみかどをお守りくださいませ」
寝所の枕元に日月護身剣にちげつごしんのつるぎを置き退室しようとすると、
「明日の朝を楽しみにしているよ」
御剣みつるぎは声を弾ませました。
どうやら御剣みつるぎは恋の話がたいそう好きなようです。

帝が移動する時、御守り刀である日月護身剣にちげつごしんのつるぎも、帝とともに移動します。
帝が執務を行う昼間には側にいる蔵人くろうどと呼ばれる役人が。夜になれば女房が日月護身剣にちげつごしんのつるぎを持ち運びます。
夜の後宮は帝以外の男性は立ち入ることはできないため女房が御剣みつるぎを持ち運ぶのです。
夜の御座おとどから昼の御座おましへ。日月護身剣にちげつごしんのつるぎを受け渡すのは朱塗りのかささぎ橋の上と決まっておりました。
私は朝もやのかかった渡り廊下を通ってかささぎ橋に向かいます。昨晩と同じ、年若い蔵人が日月護身剣にちげつごしんのつるぎを待っていました。
「お待たせしました」
昨夜の御剣みつるぎの言葉を意識してしまい、私の胸は少しざわめきます。
「いえ、いつもより早く来ていましたので」
蔵人くろうどは目を伏せうつむきます。
黒冠くろかんむりに若草色の狩衣かりぎぬがよく似合う精悍せいかんな青年でした。
恥ずかしさで居た堪れず、日月護身剣にちげつごしんのつるぎを渡して去ろうとすると蔵人くろうどが私を呼びとめます。
「髪留めが取れかかっております」
蔵人の筋ばった手のひらが私の髪を優しく整えます。
それから、わたくしと蔵人の仲が深まるのに時間はかかりませんでした。

ある時、何の気まぐれか帝が日月護身剣にちげつごしんのつるぎの刀身をわたくしに見せてくださいました。
鞘から引き抜かれた銀色の刀身には波打つ刃文はもん。何より見事なのは剣先に向かって登る龍の彫りものでした。
いつもの、黒い鞘に収まった日月護身剣にちげつごしんのつるぎを褒めると、御剣みつるぎは当然だと、鼻を高くしたようです。
「しかし、毎日、随分と楽しそうではないか」
手の中にある御剣みつるぎの拗ねたような口ぶりがおかしく、
「愛しい方がいる、というのも案外悪くはないものですね」
私ははにかんで申しました。
踊り歌いださんばかりの私を御剣みつるぎは蔑むように鼻で笑います。
「ふん、以前とはうって変わっておる。浮かれ過ぎて落とさないでくれよ」
「ふふふっ、承知しております。あなた様は私の一等大切なかたですから」
「調子の良いことだ。だが、期待にはこたえようぞ」
朝日に輝く朱塗りのかささぎ橋には日月護身剣にちげつごしんのつるぎ、いえ、私を待つ蔵人の姿が見えました。
蔵人は私の顔を見るや、ふところからくしを差し出しました。
「これを、あなたに」
艶のある黒と螺鈿らでん細工が美しい上等な櫛でした。
蔵人の顔はいつになく真剣です。
私が櫛を受け取ると、蔵人くろうどは本当に嬉しそうに口角をあげました。
かささぎ橋のほとり、何度も振り返る蔵人の背中を私は目を細めて見送りました。
そして、その日から蔵人くろうど日月護身剣にちげつごしんのつるぎは私の前からぱたりと姿を消してしまったのです。


遠くで猫が鳴いているようです。冷たい独房の岩肌から私はゆっくりと身を起こしました。
拷問で失明しかかった私の目はかろうじて光を感じられるだけで、今が夜ということだけがわかります。
明日、私は斬首されます。
あの日の夕刻に蔵人くろうど日月護身剣にちげつごしんのつるぎで帝に斬りかかりました。
それからしばらくして、蔵人くろうどは捕まり、私は共謀の罪で投獄されました。
私が贈られた櫛は盗品で、蔵人はすべて私に頼まれたと証言したのです。
どんなに無実を訴えても私には両親もおらず後ろ盾がありません。
後宮で帝の御守り刀を運ぶことが私のすべてでした。最後にもう一度、日月護身剣にちげつごしんのつるぎをこの手に持てたならと思いますが、叶わぬ願いでしょう。

猫が次第に近づいてきているようです。
いえ、猫ではありません。女の叫び声のようです。続いて男たちの怒鳴りあう声。
息を殺し耳をすませば、地面を乱暴に踏みならし揉み合う声がだんだんと大きくなります。こちらに近づいています。
どこにも行けない私は岩壁に身を寄せ小さく丸まりました。
辺りが静かになりました。生臭い血の匂いがしますが、私はどうやら生きているようですが涙が止まりません。
「みすぼらしくなったものだ」
突然、私の両頬が冷たい手に包まれました。
私の全身は震え上がりました。
「この声を忘れたか?」
私はこんな声をした人間を知りません。激しくかぶりを振りました。
「知らない……存じません」
「薄情なやつめ。まあ、よいか。行くぞ」
誰かは私を担ぎ上げ走り出しました。

「ここは?」
手を引っ張られて歩きながら、私は恐る恐る訪ねました。
逃げだそうにも目の見えない私は、冷たい手を離すことができません。
羅生門らじょうもんを抜けた。ここまでくれば追っ手はなかろう」
私は驚きました。羅生門らじょうもんをくぐった都の外には鬼やあやかしがひしめき合い、人が住む場所ではないと聞かされていたからです。
「ふん。世の中を知らんやつだな」
聞けばきくほど日月護身剣にちげつごしんのつるぎのような口ぶりと声色です。
御剣みつるぎに手はありませんし、私を担ぎ上げて走ることもできないはずです。しかし、ここは羅生門らじょうもんの外。人知を超えた何かがある場所です。
「……もしや、あなた様は日月護身剣にちげつごしんのつるぎでいらっしゃいますか?」
私は意を決して言いました。
「気がつくのが遅い」
「私の知る御剣みつるぎは、何と申しますか……繋ぐ手はありませんでしたので」
「この登り龍が見えんのか」
私は日月護身剣にちげつごしんのつるぎの刀身に彫刻された登り龍を思い出しました。
「……わかりません。目が見えないのです」
人の形をした御剣みつるぎが戸惑ったように私を覗きこんでいることがわかります。
「道理で鈍臭く、よく転ぶ」
「はい」
「再び、目が見えたら嬉しいか?」
「どうでしょう……先ほどまで御剣みつるぎを最期にもう一度だけこの手にと思っておりましたが、叶ってしまいましたので」
涙が頬を伝います。
「そうか。しばらくは手を引いてやろう。じきに夜が明ける」
「もう後宮には戻れないのですね」
私は涙を拭いながら、繋いだ冷たい手を握りしめました。

この記事が参加している募集

#文学フリマ

11,703件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?