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『SHINOGRAPHIA』ひとくち感想集【SSF07】

こんにちは!
岡山ディヴィジョンです。

本稿は、2024年6月23日東京流通センターにて開催されたシャニマスオンリー同人誌即売会『SHINY STAR FESTIV@L 07(FFS07)』で頒布された、シャニマス文芸同人誌『SHINOGRAPHIA』について、ごくごく簡単な感想をかきとめたものになります。手に取られた方々とこの感動を共有できたら嬉しいですし、そして寄稿者の方々へのささやかなラブレターに代えられたらと思っています。

致命的なネタバレは避けるように書きますが、事前情報を避けたい方は『SHINOGRAPHIA』本誌をご一読頂いた上でこの記事に戻ってきて頂けると嬉しいです!

それではいきましょ~~!


『SHINOGRAPHIA』序に代えて

美しいカリグラフィーによるエピグラフをめくると、合同主宰者であるツァッキさんの序文が掲載されています。文章自体はnoteに公開されているものの、実際の紙面に見る黒塗り背景、白抜き文字の構成は刺激的で、「何かただならぬ一冊がはじまったぞ」という予感に胸が踊り始めます。やはり、紙の本をめくるというのは喜びに満ちていますね!
序文ですが、『SHINOGRAPHIA』という雑誌が一体何を目指しているのか、どの地平に眼差しを向けているのかはすでに打ち出されています。十四人の書き手による、ジャンルも文体も、テーマも主張もそれぞれに違う、しかし情熱と愛によってしたためられたシャニマスにまつわる言説は、きっとあなたに、序文のこの一言を絶えず思い出させるのではないでしょうか。

自分にも何かを書いてみたいと思ったあなたこそが、次のシャニマス言説を構築する最初の一人となるだろう。

『SHINOGRAPHIA』序に代えて より

この雑誌には、無数よりも無数の言葉が記されていると思います。あなたの言葉も見つかるはず。表紙を開いて、そんなワンダランドへ飛び込んでいきましょう――!

七草にちかが喪った『神秘性』/岡山ディヴィジョン

※CAUTION※

すみません!冒頭に掲載頂いています拙稿「七草にちかが喪った『神秘性』」にて、「七草家は両親を亡くしている」旨の記述を行っていますが、正しくは「父を亡くし、母が現在入院中」でした!完全に設定を思い違いをしておりました。文章全体の主張には影響ありませんが、改めて、謹んでお詫び申し上げます。申し訳ございません!!!

さて、そんなポカをやらかした拙稿が、恐縮ながら掲載順としては雑誌冒頭に置かれています。七草にちかのpSSR【夜よこノ窓は塗らないデ】と「私」について書いた短めのエッセイで、『SHINOGRAPHIA』に掲載されている文章の中では一番さくっと読んで頂けるんじゃないかな?楽しんで頂けたら嬉しいです!

今回の原稿は個人的な挑戦ポイントが一カ所だけあって、それが「自分の生い立ちについて語っている」という点です。私は二十五年の人生で一度も「生い立ちの開示」を経験した事がなく、七年ほど途切れず付き合いのある友人も私のバックボーンを全く知らないくらいなんですよね。別に秘密主義というわけでもないんですが、特段そうする必要に駆られる場面がなく、おそらくこれからも、積極的にそうすることはないだろうとは思っています。

そんな私にとって、ほんの少しだけ「自分」について触れた今回の原稿は(読んで頂いた方の目にはそうは映らなかったかもしれませんが)、書くのに勇気が必要な文章でした。自分語り一辺倒にも、コミュの内容を事細かに切り刻むような内容にもしたくないな~と思っていたので、そのどちらにも傾倒しないまろやかなエッセイに仕上がっていればとても嬉しいです。そして、この本を読んでいる人に一人だけでも、強く共感してくれる人が現れてくれたらこんなにも幸せなことはありません。最後の一行に込めた気持ちとしては、余すところなく、そんな祈りだったように思います。

改めて、楽しんで頂けると嬉しいです!

虚構と感情 ――エンターテイメントとシャイニーカラーズ―― /七塔

ご自身がプロマジシャンとして活動されている(!)七塔さんによる、シャイニーカラーズと「エンターテインメント」についての考察です。多様な経歴、様々な視点を持った十四人の人間がシャニマスへの愛によってこの本に集っているということの奇跡を、改めて再認識させて貰えますね!

シャニマスのコミュについては勿論、マジシャンとしてステージに立つ方ならではの視点や宗教社会学など多様なトピックを盛り込みながら、しかし全く読者を飽きさせることなくグイグイと読ませてしまう文章は、まるでマジックのような手際の良さでした。しかも、それら異なるトピックがただ漫然と取り上げられているというのでは決してなく、それぞれを俯瞰して分析する視点の確かさは、プロとしてエンターテイメントに携わる方ならではの切り口だなぁと感心させられっぱなしです。例えばマジックにおける「間」とシャニマスの「間」についてを結びつけて語る文章なんかは、七塔さんにしか書けない切り口だと間違いなく言えるでしょうね。大変面白く読ませていただきました。
一方で、この原稿はそうした「まとまりの良さ」には決して終始しないところも凄く素敵だなと思ったポイントで、マジシャンとして経験した「コロナ禍」という苦境に等身大の言葉で向き合ったり、そこからシャニマスへの愛によって再起する姿と、最後にはエンターテイメントという「魔法」への初期衝動そのものが迸り出ることによって、私たちはぶん殴られてしまうわけです。いやはや、感想を述べようとすると私の語彙の問題でどうしても安っぽい表現になってしまいますし、そしてこの感想文において何度もこの表現を使ってしまうことになるだろうから大変申し訳ないんですが、これが「愛」でなければ、なんだというのでしょう。

飾らない力強さに満ちた一言に、文章は締め括られます。きっとそれは、七塔さんが信じてやまない、愛してやまないものを肯定するための言葉でしょう。そして同時に、私たちが愛してやまないものを肯定するための言葉でもあります。そんな熱い想いを持った人がステージに立つことの意味に、私はなんどだって新鮮に心を打たれてしまうのです。
この文章を読み終えた時の気持ちは、ステージを灼くライトがぱっと消えて、空気を冷ますように広がった暗がりが、しかし私たちの期待によってどんどんと熱されていくライブのあの瞬間にも似ているように思います。

シャニマスコミュニティの考察/まっきんりい

シャニマスを取り巻く「コミュニティ」について、実際に集計したアンケートの結果を基に考察するまっきんりいさんの文章です。いくつかの定量データを元に、予断にもつれ込むことなく丁寧に読みほぐしていくまっきんりいさんの文体は、シャニマスオタクたちと膝を突き合わせて何でもない話をしているときのような居心地の良さと、話のうまい先生の授業をきいているときのような好奇心への刺激とが同居しているような、読みやすい一本でした。
個人的な話になってしまうのですが、まっきんりいさん程ではないにしろ私もシャニマスのコミュニティには関心がありました。私は2022年夏からシャニマスをはじめたのですが、2023年春からシャニマスをはじめたまっきんりいさん同様、コミュニティの歴史や構成について無知なところがあり、一方で同じゲームを愛している人たちのことを知りたいな、という素朴な興味は前々から抱いていたのです。

集計されたデータからは、シャニマスを取り巻くコミュニティの特異性と、そして本当に愛が深い人たちによって支えられた作品でもあるんだなぁということが浮かび上がってくるように思います。そもそも、シャニマスについて語りたい!という人たちが集まってかたちになった『SHINOGRAPHIA』もそうだし、まっきんりいさんによるこの「コミュニティ考察」もそうですよね。やっぱり安っぽい表現になってしまいますが、でっかい愛にあふれているとしか言いようがないですよ!
定量的なデータをもとに執筆された原稿ときくと、どこか冷たい質感を連想するかも知れませんが、むしろこの原稿には書き手と読み手の温度が文章を介して共振するような快感があります。『SHINOGRAPHIA』はシャニマス文芸同人を標榜していますが、紛れもなく、これもまたシャニマスにまつわる言説の瑞々しい一形態と言わざるを得ません。素晴らしかったです…。

だから、私はシャニマスだけじゃなくて、シャニマスのオタクのことも大好きなんでしょうね。まっきんりいさんは「シャニマスというコンテンツとそのコミュニティに熱を移されていたのかもしれない」と表現していますが、それに激しく共感してしまいますし、この雑誌を読んだ人にもその熱の一端が伝わったら、とても素敵だと思います。

芸、或いは二値化のモノクロームについて。/216ばんどうろ

216ばんどうろさんによる、「芸」あるいは「芸人」についての文章です。原稿冒頭に提示されていることですが、ここで言う「芸人」とはいわゆるお笑い芸人を指す語としての芸人ではなく、芸によって公から評価を受ける仕事に就いている人を指す語としての「芸人」です。さて、その「芸」とやらがどのようにシャニマスと絡みついていくの?については、ぜひご自分の目でお確かめください。『SHINOGRAPHIA』を手に入れられなかった……という方々についてはごめんしかないね。
すごく素敵な原稿でした、という率直かつ凡庸な表現になって申し訳ないんですが、本当にその一言に尽きてしまいます。お笑い芸人と「ボケ/ツッコミ」を例に挙げながら、芸とはなんぞやを読みほぐし始める冒頭から、『ツァラトゥストラ』の説話を引用し始める次節に至るまで、シャニマスの話が出てきません。しかし、それらがなぜそのようにして書かれなければならなかったのか、もっと言えば、どういった「芸」によってこの原稿が成り立っているのかということに、激しい愛情を掻き立てられてしまいます。この文章を書いた人のことも、この文章を書かせた熱意や愛情も、その対象となったアイドルのことも、そしてこの原稿自体も。読んでいると、愛が爆発しそうになっていてもたってもいられない、そんな心地にさせられるんですよね。それだけ力のある読み物でした。

論理展開が自然で、読んでいてすっと呑み込めるのに、随所の表現にはぐっと引き込まれるものもあって、単純な読み物としての魅力もすごいです。そして、単に技巧に走っているというわけではないんですが、なぜ冒頭にこの話をしているのか、ということがある種の「オチ」として私たちの納得に結びついたときに、シメの一言が気持ちいい。パロディ元があるらしいんですが私は寡聞にして存じ上げず、元ネタにあたってみたくなるくらい、いい文章なんですよ、もう!!!!

いいないいなぁ~こんな文章が書けるなんて羨ましいなぁ~、なんてやっかむようなことを言い出したくなりますが、勿論、理解しているつもりです。この書き手がそうしたように、泥臭くも言葉にしようとすることこそがある種の「芸」なんでしょうし、そうすることの尊さも愛おしさも、すでに原稿には示されているわけですからね。エピグラフから〆の一文に至るまで、本当にどこを切り取ってもキラキラしたモノクロームの輝きに、読み終えた今でも心が囚われています。

私とノクチルと世界とそれ以外の事/泡瀬雨歌

泡瀬雨歌さんによる、「私」と「ノクチル」、そして「世界」にまつわるエッセイです。思い出とか、もしくはもっと味気ない言い方では記憶とも呼ばれるような卑近なエピソードの連なりが、空間的あるいは時間的な広がりを持つ世界と接続されていく瞬間の感動は、とても言い知れません。ひとくち感想文などと標榜しておきながら申し訳ありませんが、読んで貰うしか、この素晴らしさは共有できないでしょう。「どのようなことが書いてあったのか」をいくらネタバレしたって、この文章の魅力が損なわれることはない、そんなタイプの名作でした。

白状しますと、私はこの文章を読み終えて十五分ほど、涙でぐずぐずになっていました。そうしていることが何となく身勝手な振る舞いのように思えて、本当は我慢したかったんですけど、我慢できないくらいに心を揺さぶられてしまったのです。『SHINOGRAPHIA』という雑誌に載っている文章はいずれも魅力に満ちあふれていますが、中でもこの文章に激しく動揺してしまったのはきっと、この文章の中に自分の感情との再会を、あるいは(泡瀬雨歌さんの表現を借りるなら)「ノクチルとの出会い」の再演を目の当たりにしたからだと思います。
無論、文章はとても上手だと思います。一万五千字をぺろりと読ませてしまうその手腕は流石の一言です。でも、書くのが上手だからこの文章が好きなわけじゃないんですよね。それは、浅倉透の目元とか口元とかに浮かぶ笑顔が好きであることと、一目に異質と分かる端正な容貌が好きであることとが、必ずしもイコールでないことに似ているような気がします。私はこのエッセイを、「上手な文章」として紹介することはないでしょう。「大好きな文章」です。

潮の満ち引き、地震、そして春に降る雪。少しずつスケールが広がっていく世界を目の当たりにして、こらえていた物が決壊しました。こんなにも美しい文章を読んでおいて、もはや私がなんやかやと自分の話を始めるなんて論外なので、感想はここらで引き上げようと思いますが、一言だけ感謝を述べたいと思います。私は、この文章を読んで沢山のことを思い出しました。それは振り返らなくなった思い出とか、思い出さないようにしていた記憶とか、もっと言えば記憶未満の印象とか、そういう類いのものですが、それらに再会できたことがどうしようもなく嬉しいと思うのです。僕にもきこえる気がします。あたり一面の雪が音という音を吸い込んで、物静かだったはずの世界を走り抜けていく、列車の音が。

他の誰でもない、泡瀬雨歌さんだからこそ書けた文章であると同時に、いつかこんな文章を自分でも書いてみたいなぁと、そう思います。

雪の降っていない街/ヒナーシャ

ノクチルが富山旅行へ赴く。樋口円香の視点を軸にしながら紡がれるヒナーシャさんの小説「雪の降っていない街」は、ああ、もう、この単語に頼りっきりな私の浅はかさにはほとほとうんざりするようですが、とにかく美しい一作になっています。
ノクチルのオフビートなかけあいに心地よくくすぐられながら、しかし全編にわたって随所に感じられる「視線の動き」が、作品世界をとても繊細なものに仕立てています。そうした叙述の魅力が爆発しているのが、やはり情景描写の数々でしょう。富山の実際にある風景を言葉少なに、しかし豊かに浮かび上がらせる文章からは、その人物(語り部=多くは円香)がどのように目線を動かしているのかがありありと想像できます。とても写実的。円香が公園を一人で歩く場面や、ノクチルが海岸に降り立つ場面などが、その白眉と言えるでしょうか。

「旅行」というものはどこまでも体験であって、それを言葉にそのまま変換するのは容易ではありません。私たちが見知らぬ土地の建物を見上げたり、日陰を探して歩き回ったり、前髪を押さえながら海岸線を見やったりといった体験は、こうして言葉になおしたときに受ける印象以上の「なにか」を、私たちに与えてくれたはずです。それが、言葉にしようとした途端に失われてしまう。だから、言葉に表せなかった筈の居心地良さがこうして小説(物語)という形態で書き表されていることは、読み手である私にとって奇跡以外の何ものでもありません。

円香が何に目線を送っているのか。水平線なのか、足元なのか。海面なのか、岩場なのか。空なのか、透なのか。それらが少ない言葉に、しかしあまりにありありと描き出されることによって、私たちにとっても富山旅行が「体験」になってしまう瞬間が、本作にはあります。そうして自分の体験になってしまうからこそ、富山を離れる場面からは旅行が終わってしまうときの切なさが喚起されてしまうわけです。

そして何より、私が心を動かされたのは物語の結末でした。私たち読者にとっての「体験」でもある本作が、しかしノクチルを手放す瞬間を描くことによって物語を締め括ります。彼女たちは自由なんです。他の何人によっても「追体験」されない、真に自由な彼女たちの姿が描かれて終わるのですから。

どれだけの愛があれば、こんな文章が書けるんでしょうね。とても素晴らしい物を読ませていただきました。
個人的な話にはなるのですが、私はヒナーシャさんと同学年の世代でして、同い年の人間としてひたすら尊敬です。これからの活動、さらなる飛躍を、心から応援しています。

よみがえり/有島みこ

有島みこさんの「よみがえり」は、AIで八雲なみを蘇らせるという主旨の番組に出演することになった七草にちかの、心の揺れ動きを描く小説です。中々ぎょっとする導入でインパクトがありますが、内容もそれに引けを取りません。小説のようでありながら詩のようでもあり、断章のようでありながらひとまとまりの物語のようでもある。まるで、仕事に向き合おうとする七草にちかの心情のようにどこか危ういバランスで成立した作品でした。
何気なく書かれた一行の文章にぐっと心が引き込まれてしまうような力があり、同じ小説でもアプローチも魅力もぜんぜん違って見えるのすごいなぁ~と一人感心していた次第です。

文体はどこか淡々としていながら、しかし物語の結末を受けた上でいくつかの場面を振り返ると、なるほど、生きた七草にちかがそこには描かれていました。ネタバレになるのでそれが何と対比をとっているかということについてはご自身で確かめてほしいんですが、風呂に入る場面も、メイクをする場面も、にちかが生きているということ、あるいは、何度も袖を通すことで「くたびれた」アイドル衣装のように、やはりくたびれているにちかという一人の少女が、初期衝動の超克を通じて「よみがえる」物語、とも表現できるでしょうか。八雲なみという引退したアイドルを蘇らせてしまおうという番組の主旨が、"七草にちかが蘇る物語"によって貫かれた、短いながらに鮮やかなお話でもありました。

そして……いや、ネタバレになっちゃうな……その、ネタバレにならないように気をつけますが……にちかが蘇るにあたって「何」を「どう」したのか、ということ。つまり、AIの八雲なみといういびつな存在を乗り越えるにあたって、「何」を「どんな風に」する必要があったのか、ということが、一種神話的ですらあって……支離滅裂になって申し訳ないですが、ちょっとこれ以上書いちゃうとネタバレになるので言明は難しいですね。婉曲に表現するなら、「よみがえり」と題しているだけあって、生命が一種のキーワードになっていたんだなぁと納得させられた、といったところでしょうか。シメの一言も主題に収斂していくような力強さを感じて素晴らしかったです。

素晴らしい主題が中心に据えられて、短いシーンであってもその殆どが主題と紐付くようなかっこうで描かれているので、ネタバレしないことには具体的な場面に言及しづらいですね。詩を読んでいるときのように無駄を感じさせない文章だったと言えるかも。
ちなみに私は、プロデューサーにぽんと押された背中に、肉体の存在感を受け取る終盤の一文が好きでした。よい小説でした。

C♡NNECT AGA!N/塵浜一

塵浜一さんによる小説「C♡NNECT AGA!N」は、不思議な発明品によって雛菜が幼児化してしまうという突拍子もない切り口から、雛菜の「あるトラウマ」を乗り越えるまでを描く物語でした。塵浜一さん曰く「自身初の執筆」(著者プロフィールより)とのことですが、処女作らしい拙さは全く感じさせず、むしろのびのびと文章の羽を広げる、様々な魅力に満ちた一本となっています。
幼児化というファンタジーな出来事をきっかけとしながらも、物語の本質、本作が提示する「市川雛菜の核」となる部分はむしろ、普遍性と飾らない美しさによって描き出されていきます。ドラマティックな出来事はいくつか起こりますが、むしろ、なんでもない瞬間にふと心が揺れ動く描写に、本作最大の魅力が詰まっていると言っても過言ではないでしょう。

例えば、ぐっと心を掴まれた描写に、円香と幼児化した雛菜が手を繋いで歩く場面があります。幼なじみが幼児化しているという異様な状況でこそありますが、夕焼けの中、手を繋いで帰路を急ぐというのはなんてことない一瞬の出来事でしかなく、数年後も覚えているようなことではないかもしれません。取るに足らない青春の一頁。けれど、そんな一瞬の出来事の中に、心が揺れ動く瞬間が確かにあるんですよね。そうしたものを、この物語はとても大切に描いています。
先日、作者である塵浜一さんご本人とお話しさせていただく機会があって、その際にもお伝えさせて頂いたことなんですが(とても端正なお顔立ちをしておられました)、これって本というフィジカルの媒体で『SHINOGRAPHIA』が手元に残ることにも似ているなと思うんですよね。だって、シャニマスの同人誌を頒布するという出来事は、シャニマスを好きでいる人の総数から考えればごくごく小規模かつ偶発的な事象でしかなくて、それに、実際に本を読んだ人にとっても、数年後には何が書かれてあったか忘れてしまうような刹那の営みに過ぎないかも知れません。同人活動というものは、どうしたってそのような側面を孕むものでしょう。夕焼けの帰り道に、ふとその瞬間を永遠だと思った気持ちが、来週には忘却されることにも似ています。しかし、本棚に『SHINOGRAPHIA』という本が残り続けることが、とても価値のあることのように思うんです。本を開いたときに、厳密には全く同じ気持ちになれなくても、その時の気持ちに触れることが出来る。円香が感じた長い長い一瞬の出来事だって、僕たちは再び、そこに再会することが出来る筈なんです。「C♡NNECT AGA!N」を読み返すことで。

雛菜がトラウマを乗り越える場面は、劇的でありながら同時にささやかであって、どうでもよいことのようでいて同時に重大なことでもあって、それは、クマのぬいぐるみに付いたインクの汚れのように、私たちにとって代替しがたい一大事なのでしょう。

雛菜の物語が「書かれた」。そして、私たちはそれを読んで、感想を「書いて」しまった。だからインク汚れを拭い去ったとしても、いつだってこの気持ちに帰ってくることが――"再び繋がるC♡NNECT AGA!N"ことが、可能なはずなのです。私はそれが、たまらなく愛おしいんですよね。

MetaMorMuse/櫻井天上火

櫻井天上火さんによる、田中摩美々についての詩「MetaMorMuse」は、なんと言って良いんでしょうか……田中摩美々について書いてある、としか表現できないかも知れません。詩への造詣が皆無な人間が書く感想であることをお含みおいた上で私なりに考えたのは、言葉選びの美しさであったり、言葉が連なることによって生まれる音としてのグルーブ感であったり、私たちが共有する摩美々のイメージを想起させるようなフレーズであったり、確かにそうした物によって詩の表意は支えられると思うんですが、それ以上に、詩の一文字ひともじから「温度」を感じるから、田中摩美々を見るのではないでしょうか。

宵闇の冷たさ。真昼間の鬱陶しさ。あるいは、冷たさとか熱さとかがない交ぜになったつかみ所のない"紫"の体温を、私たちはありありとその紙面に見てしまいます。温度を感じながらめくった頁から、染めたばかりの毛先が街灯を吸い込む時のような煌めきがこぼれ出します。そうした奇跡を表現する方法としての詩は、もう、どうやって創るのかまるっきり想像できません。語彙力が尽き果てていて申し訳ないですが、すごいの一言です。

詩を書いたことがないので想像になってしまいますが、個人的には書くのが最も難しい表現形態のような気がしていて、勿論、「それらしい」だけなら誰にだってできるでしょうが(それは文章を表現方法として選んだ時点である程度どの表現方法に対しても言えるでしょうけど)、だからこそ、自分の中に熱く渦巻く気持ちを表現する「詩」という表現方法は、ある意味、究極的な表現の手法であるとも言えるかも。少なくとも、私にはとても真似できない言葉に満ちあふれていました。

たった一文字、たった一行のひとまとまりにどれほどの集中力と、愛と、熱意と、時間と、知識と発想をぶつけたらこんな表現が可能になるのか、ぜひ頭を開いて中を見てみたい。そんなことを感じさせる原稿です。

アイドルマスターシャイニーカラーズにおける〈政治〉/もーらす

アイドルマスターシャイニーカラーズという作品に関連付けながら、「政治」や「共同体」に鋭い洞察を向けるもーらすさんの論考「アイドルマスターシャイニーカラーズにおける〈政治〉」は、その博覧強記ぶりに舌を巻きながらも、決して他人事にはできない、ともすれば容易には取り扱えない政治に対する意識を、読み手に手渡してくるような、たいへん力のこもった文章でした。……いや、これ、何を感想に書いたら良いんですか?

私も気軽に使っている「シャニマスの思想」というひじょうに安っぽい言い回しがありますが、こちらの原稿で繰り広げられる、数多のコミュに横断しながらシャニマスと政治の特異な距離感を拾い上げていく手際には、安っぽさではない迫力がありました。特に浅倉透のコミュ、『アジェンダ283』、『はこぶものたち』への言及に紙幅が割かれていましたが、シャニマス全体に漂う一種の普遍性が浮かび上がってくるようでもあり、「この人どれだけシャニマス好きなんだ……」と何度目かの溜息が漏れます。浅倉透が政治のパロディを演じているということ、そしてその要因の指摘は気持ちよすぎて声が出てしまいます。
本当に疑問なんですけど、これだけ多岐にわたる知識を引っ張り出しておきながら、どうして破綻せずに成立するんですかね?あまりにも読ませる文章なために気づきづらいですが、どえらい数の引用を平然とこなしながら論旨展開はまるで最初からそうと決まっていたような巧みさでもあり、もの凄く整然とした混沌といった感じで、クラクラしてしまいます。

さて、雑に博覧強記の一言にくくってしまいましたが、しかし単に衒学的とかそういうことでは全くなくて、むしろその根底には「アイドルマスターシャイニーカラーズ」というコンテンツをどう眼差すのかという当人の切実な意識があるからこそというのが、また、憎い。本文内に明示されているとおり、この文章が主眼を置いているのはシャニマスそのものではなく政治や共同体なわけですが、しかし、シャニマスと紐付けて語らなければならない理由がご本人の中にあったんじゃないかなと想像させるような魅力があります(そして論の説得力を見るに、その必然性は明白な形で私たちの前に提示されていますね)。そもそも、もーらすさんという方が魅力的な人なんだろうなぁと感じるばかりです。
(主宰者であるツァッキさん曰く)「インテリの化け物」であるもーらすさんですが、原稿の〆はやはり、ポルノでしかないシャニマスを愛していること、これからも愛していくということにひとまずの結論を結びつけるその手つきには、どれだけ知性の階層が私ともーらすさんの間で離れていようとも、共有する(共有していかざるを得ない)「想い」が、束の間そこに姿を現すような、都合の良い錯覚に駆られてしまいます。自意識過剰ですかね。でも、どれだけ安っぽいとしても声高に主張したいわけです。僕はシャニマスを愛しているのです!と。
すばらしい論考でした!!

伝達・引用・他者 ――八宮めぐるを捉え直すための試論 /くらさかもか

八宮めぐるとコミュニケーションの(不)可能性についてを、実際のコミュの内容を細かに参照しながら論じるくらさかもかさんの論考「伝達・引用・他者――八宮めぐるを捉え直すための試論」は、(本文中にも指摘されているとおり)語られる機会の少なかったコミュである【キネマ・リリックで夢見て】や『真夜中発、ハロウィンワールドの旅人』について、そして多くの人に語られてきた【チエルアルコは流星の】を独自の観点から分析して、八宮めぐるの輪郭を捉え直すことに取り組んでおられます。

確かに、キネマ・リリックやハロウィンワールドの旅人は語られる機会の少なかったコミュですし、それをこの精度で分析する文章は単純にもう面白いですが、それだけでなく、例えばモチーフ解釈をするにしてもその主張を補強するための引用を適宜行いながら、しなやかさと力強さとを両立させる見事な論旨展開を目の当たりにするようです。プロデューサーの口パクという仕草が、一種の「透明な歌」であるという指摘には唸らされましたが、なによりハロウィンワールドをめぐる「食」のコミュニケーションという切り口からの読解には、思わずしびれましたね。
チエルアルコは確かに、これまでにも語られる機会が多かったコミュで、本文で指摘されるとおりnoteにも沢山の記事が投稿されています。そうした先行研究にも目を向けながら、しかしこの原稿では独自の観点からこのコミュを読みほぐしているのも面白い。しかも、それが突拍子もないのではなく、きちんと「引用」という原稿のキーワードによって一貫されているのがすごいですね。丁寧かつ整頓された言説の中に、階段を一段飛ばしするような軽やかな飛躍が垣間見えるのが読んでいてとても楽しい。

私は、この論考が最終的に示したことがとても心に残りました。それはやはり、書くことや語ることが持つコミュニケーションと同質の不能であり、そして同時に尊さでもある。めぐるがそうするように、そして私たちの手でめぐるがそうされるように。私がこの原稿に対してそうするように、あるいはこの感想文をたまたま目にした誰かがそうするかもしれないように、それは再解釈され、引用され、語られ、相互に作用し合う。そうなると、信じられる。
これも、勝手に私がそのようなメッセージを読み取って、解釈して、この記事に引用しているに過ぎないかも知れませんが、それでも、そうやって人を励ますだけの真摯な真っ直ぐさを感じ取らずにはいられない、素敵な文章だったと思います。

きっとあなたも、私と同じように、書かずにはいられない。そんな気持ちに駆り立てる。そんな愛と美しさによる文章でした!

コミュ以外における「プロデューサー」の一考察/みやまれおな

アイドルマスターシリーズに共通して登場する「プロデューサー」という不思議な概念。なかでもアイドルマスターシャイニーカラーズにおける「プロデューサー」は一段と込み入った存在であることは、このコンテンツに深く親しんできたプレイヤー諸氏にはごく当然のこととして肯かれることでしょう。
さて、そんな「プロデューサー」について、その込み入った状況を言葉の上でつまびらかにする、みやまれおなさんによる考察は、定量的なデータに基づきながらファンダムの性質を考察したまっきんりいさんの原稿に並んで、シャニマスが多面的にコンテンツ展開を為してきたことを思い起こさせます。原稿でご指摘の通り、シャニマスにおいてはコミュに登場する一人のキャラクターとしての「プロデューサー」と、ライブ会場等でファンの総体に呼びかけられるときの「プロデューサー」とがあって、さらにその間に無数のグラデーションがあるというのは、こうして言葉に起こしたことこそなくても、読んで頂ければ「確かにそうだよなぁ」と納得させられること間違いないでしょう。

この、アイマスシリーズの中でもさらに特異な用いられ方をする、シャニマスにおける「プロデューサー」の考察は、当然シャニマスが好きな人にしか持ち得ない観点であり、シャニマスというコンテンツならではの視点であるとも言えるでしょう。そうした切り口の文章が『SHINOGRAPHIA』に掲載されていることには、意義深さを感じます。

この原稿で指摘されることは、次々と腑に落ちていく快感があります。私を含む多くのプレイヤー、即ち「シャニマスファン」たちが、都合よくスタンスを変え、テキストを読み替え、何かを無視したり逆に拾い上げたりと、「プロデューサー/プロデューサー」間に存在する無数のグラデーションを右に左にうろちょろしていることが、原稿の中では明快な形で指摘され、そしてその要因にまで広がりを持ちます。具体的なコンテンツ施策を持ち出すことによって、つまり「283プロ見守りカメラ」や「OurSTREAM」等を持ち出すことによって短い文章の間にどんどん納得させられていくドラマティックさとスピード感もあって、あっという間に読めてしまうよい文章でしたね。
シャニマスという特殊なコンテンツがこの考察の端緒となったことは言うまでもありませんが、しかし、シャニマスはあんまり知らないけどアイマスは結構好きだよ、という人にも読んで貰いたい一本かもしれません。

風景としてのシャイニーカラーズ ――アイドルたちの不自由、内面、そして二十年代の風景 /ホワイト健

アイドルマスターシャイニーカラーズという作品が示そうとしている「風景」とはなにか?「風景」という一つのキーワードを元に、種々の書物を関連付けながら"二十年代の風景"の輪郭を描き出そうとするホワイト健さんの論考「風景としてのシャイニーカラーズ」は、長大でない文章の中に不思議とスケールの大きさを感じさせます。この論考が示す"二十年代の風景"に至るまでの鑑賞態度の変遷が、『日本風景論』と紐付けることでごく手短ながら概観として示されているのが、スケール感の要因でしょうか。大変面白く読ませていただきました。

特に『明るい部屋』に関連付けていくパートが印象に残りました。ネタバレにならないように書くので未読の方には何を言っているのか分からないでしょうが、敢えて「不自由」を選ぶことによってシャイニーカラーズ自体が「風景」となる、あるいは二十年代的な"風景"を示そうとしているのではないか、という推察には思わず唸ります。

原稿にも書かれていますが、ホワイト健さんがデレマスPというバックボーンを持っていることと、それだけでなく(ホワイト健さんの普段のツイートから窺えるように)多岐にわたるコンテンツに精通していることが、こうした相対的な分析を可能にしているのでしょう。私のような人間には、なぜ短絡的な相対主義による無限後退に陥らないのか不思議な気持ちになります(確かな視座と豊かな参照を、ご本人の情熱によって紐付ける文章の手つきを目にすれば、悪しき相対主義に陥らない理由なんて明白なわけですけどね)。
続く『天塵』を通じたアイドルの内面、実存についての記述も勿論見事で、様々な文章やコンテンツを参照しながら普遍的な論を展開するこの原稿が、しかしなぜシャニマスを通じて書かれなければならなかったのか、その理由が垣間見えるように思います。

シャニマスにおいて聖蹟桜ヶ丘が聖地とされていることには、何か特別な意味がありそうだな~なんてことは、私を含む多数のプレイヤーが直感しているところですが、前述のもーらすさん「アイドルマスターシャイニーカラーズにおける〈政治〉」しかり、ホワイト健さん「風景としてのシャイニーカラーズ」しかり、それぞれの観点から理解しようとする人には尊敬の念しかありません。自分もこうありたいものですよ!!
改めて、切り口の魅力が光るよい文章を読ませていただきました。

流れよわが涙、と彼女は言う ストレイライト『VS』における愛と真理、あるいは読むことへのアプローチ/ツァッキ

イベントシナリオ『VS』を一つの切り口に、ストレイライトについて、そして「私たちが読むこと」についてまで論を展開していくツァッキさんによる論考は、もーらすさんの論考がそう締め括ったように、どこまでもポルノに過ぎないシャニマス(/アイドルたち)を、それでも愛するということが、激しい愛の実践によって貫かれています。『SHINOGRAPHIA』を締め括る骨太な論考に、繰り返し用いてきたこの凡庸な表現を向けることをお許しください。本当に、どんだけシャニマスを愛しているんだ。

ストレイライトという特異な関係の三人を、非常に豊かな視点で読みほぐしていく前半。まずここの鮮烈さに大いに驚愕させられます。『VS』を切り口に展開される論旨はしかし、三人の関係性を眼差す我々に新たな視点を与えてくれるので、他のイベントコミュを読み返したくなること間違いなしでしょう。
そして論の終盤。ぜひご自身の目で読んで、心を震わされてほしいんですが、ストレイライトの美学がそうであるように、読み手である私たちとストレイライトとの間でもある約束事がご破算になることによって、なにものにも代えがたい真理の姿が立ち現れる瞬間の、なんと愛おしいことでしょうか。我々が還るべき「現実」の居場所を、ジャンクに過ぎないシャニマスを愛することの真実を、どこまでも陳腐な表現によってしか語り得ない「愛」の断片かその全てを、読み手である私はその紙面に見出さずにはいられないわけです。

この文章を読んで私たちは、もう何度目か、やはりこう叫ぶ事になります。やっぱ俺/私って、シャニマスが好きなんだよな!と。

最終的にこの論考は、「何かを言いたい、言わなければならないと感じている」我々、読み手一人ひとりの実感に迫ります。ツァッキさんによる論考としては「浅倉透論(note)」などでも大変印象的でしたが、自分だけのアイドルたちと出会うこと、自分だけのシャニマスをつくっていくことへ帰着していくのは、「読むこと」を思考する論考においては、より心に肉薄するものがあるように思えてなりません。

あなただけのシャニマスが今まさにここから始まる。何かを始めるということ、何かが始まるということは、往々にして他者が思いがけず中断したメモの切れ端から連綿と言葉が続くようにして始まっていくのである。

「あなたに浅倉透を愛しているとは言わせない
――あらかじめ読みえないテキスト群をそれでも言祝ぐための一試論」

この論考を目撃することによって私たちは、改めて『SHINOGRAPHIA』という大事件の姿を意識します。シャニマスにまつわる数多の言説、その最前線フロントラインがここにある!

編集後記

『SHINOGRAPHIA』はこうして、十四篇の批評・小説・詩・エッセイによって一冊の本になっています。各々が全く異なる切り口で、異なる文体に、異なる主張を通じて、しかし「アイドルマスターシャイニーカラーズ」というたった一つの真実のために書かれた文章。同人即売会という祭りを彩る一瞬の為の言説であると、あるいは数多いるオタクの一人がつらつらと何かを語っているに過ぎないと流すことは出来るかもしれませんが、私は力強く、これは大事件であると主張します。この本が書かれ、そして読まれたことによって、世界は間違いなく一変してしまったからです。

私はもう、書かずにはいられません。

主宰者であるツァッキさんがシャニマスのコミュ(大崎甜花WINGシナリオ)との出会いを通じて、「自分が書き換わって」しまいそうなほどの衝撃を受けたのと同じように、私もシャニマスと出会ったことで、人生観が大きく変わりました。それほどの感動と、それほどの衝撃だったのです。きっと私は、世界一シャニマスが好きで、世界一シャニマスに救われています。

『SHINOGRAPHIA』に掲載されている文章も、どこかの誰かにとって、シャニマスと同じようなものになっているのではないでしょうか。十四本のうち一本だけでも、否、一行だけでも。あなたの人生を変えてしまう程の出会いが転がっていたら、雑誌の末席を汚した人間として心から嬉しいと思います。

『SHINOGRAPHIA』は短くド派手な花火、とは主宰者の言葉です。第二弾、第三弾と続く予定はないとのことで、一読者としては少し寂しいような気がしますが、しかし、それを寂しがる必要はないんですよね。なぜならこの本を手に取った誰かによって、新たなシャニマスにまつわる言説が紡ぎ出されていくことに、私は期待と確信を寄せているからです。いつか未来のSSFで、「シャニマス文芸合同」を標榜する同人誌と出会えることを、心から待ちわびています。

もはや多くを語る必要もないでしょう。『SHINOGRAPHIA』に寄稿された書き手のみなさまと、この本を手に取ったみなさまと、私自身と、そして無数の"未来の書き手"たちに向けて、無窮の愛を。
次は、あなたの文章でお目にかかれることを楽しみにしています。

自分にも何かを書いてみたいと思ったあなたこそが、次のシャニマス言説を構築する最初の一人となるだろう。

『SHINOGRAPHIA』序に代えて より

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