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『SHINOGRAPHIA』刊行記念対談その③ヒナーシャ氏――現実を巡るサイケデリアの旅

 対談のその1、その2は以下をご覧ください(その1に当企画の説明あり)。

・その参 ヒナーシャ氏

(関東某所在住。システムエンジニアとして働きながら、通信制大学で人文学を学んでいる。樋口円香への愛は誰にも負けず、noteやTwitterで樋口円香とのツーショットをしばしば上げている。素朴な語り口から浮かび上がってくるヒナーシャ氏の危うく繊細な一面が、彼の作品へのまなざしを一層深めてくれるだろう。)

(インタビュアー紹介:ツァッキ 東京都在住。『SHINOGRAPHIA』刊行間近で多忙を極め、大学院の授業を必修とゼミ以外切りまくっておりまたしてもダメダメ私文大学生ぶりを発揮。金欠も極まっておりSSFで他の出展者の作品を買えるかどうかすら怪しい状況になっている。)

ツァッキ(以下、ツ):はい、『SHINOGRAPHIA』刊行記念対談最終回ということで、今回はヒナーシャさんにお越しいただきました。自己紹介をお願いします。

ヒナーシャ(以下、ヒ):ヒナーシャと申します。ノクチルを主に担当していて、ノクチルのコミュは大体読んでます。その中でも樋口円香ガチ恋です。

ツ:樋口円香ガチ恋については今回のインタビューでも掘り下げるつもりなのでよろしくお願いします。

質問1.今回、ヒナーシャ氏にはノクチルが富山旅行をするというシナリオで小説に挑戦いただいた。彼女らのオフビートなやり取りの中にわずかな寂寥感が滲む優れた作品である。ヒナーシャ氏はnoteでも担当の樋口円香との旅行記を書いているが、ヒナーシャ氏がある種の「紀行文」にフェティッシュがあるのはなぜか?また、紀行文的な小説でしか実現しえないことは何か?

ヒ:(紀行文に)フェティッシュがあるっていうのはあんまり自覚してなかったですね。なんでだろうって考えてみたんですけど、その形式が一番書きやすいっていうのはあって。旅行は始まりと終わりが明確にあるので、今までフィクションとか小説を書いてこなかった自分としては、形式が肌に合っていたというか、書きやすかったというのはありますね。

ツ:始まりと終わりがある旅というのが一つの作品を仕上げるうえでのパッケージとしてやりやすいということですよね。でも、樋口円香との旅行記にしても今回のノクチル富山旅行にしても、長野とか富山のディテールがありますよね。富山だったらノクチルのみんなが鰤を食べるとか、小説の中に公園が出てきますけど、あれも実在の公園で、そういう面で(ヒナーシャさんの小説において)フィクションとドキュメンタリーの境目って果てしなく曖昧だと思うんですよ。フィクションとしての小説にこだわりつつ、リアリズム的なディテールにこだわる紀行文という形式でそこの境目が曖昧になるのが僕は面白いと思っていて。フィクションにおけるディテールという点でヒナーシャさんは何にこだわっているんでしょう。

ヒ:大事なのは「実際にある」ということですよね。本当に行った過去の旅行とかを思い出して、それを文章に書き起こす。それ(文章)をフィルターにして、風景とか情景をそのまま写すのではなく、樋口円香と旅行したっていうのをワンクッション挟んだりすることでもうフィクションになりうるんですよね。エッセイではなく、そこでもう小説になる。

ツ:これは作品から外れちゃうんですけど、僕はヒナーシャさんの樋口円香旅行記めちゃくちゃ好きで。なんで好きかっていうと、自分の部屋で目覚めるシーンがあるじゃないですか。樋口円香はいないんじゃないかっていう。あそこすごい好きなんですよね。あそこでエッセイじゃなくて小説になってるわけですよ。今回のノクチル富山旅行も、樋口が浅倉に覗かせるちょっと湿った情感というか、「なんでそんな顔をするの」って(樋口が)言うじゃないですか。ああいう場面に代表されるように、淡々と綴られていたはずの紀行文の中に突如開く裂け目みたいなものがヒナーシャさんの作品にはあると思うんですよね。それはディテールをちゃんと書き込んでいるからだと思うんですよ。そういうディテールとフィクション的な裂け目の対比っていうのは意識されてますかね。

ヒ:意識的にこうしようってあらかじめプロットに起こしているわけではないですね。書いてるときにふとこれを入れたくなるっていう瞬間があって、それはもう読んでて面白いなって思うからなんですけど。多分裏では無意識的な計算は働いてると思うんですが、それを意識的に計算して入れてるかっていうとそういうわけではないです。

ツ:先日ヒナーシャさんは文フリに一次創作の小説を出されてましたけど、そちらは多分紀行文という形ではないですよね。ヒナーシャさんはTwitterでも伺える通り小説や文学作品に親しんでいますが、小説を書く上で一次創作と二次創作の違いがあるとすればそれはなんでしょうか。

ヒ:ほとんど差がないと自分は思っていて、(一次創作の)小説も言ってしまえば現実の二次創作という側面はあると思うんですよ。私小説が基本的にそういう形式だと思うんですけど。二次創作はキャラクターが出来上がってて、それを動かすという段取りですが、そういう意味で書きやすさという違いはあると思います。

ツ:二次創作はこういう見た目で、こういう性格でっていうのが出来上がった状態でそれを動かすという感じですからね。僕は長野旅行にしても富山旅行にしても、自然の描写っていうのがとても印象に残っているんですよね。富山の雪もそうだし、noteだと写真が上げられてるじゃないですか、ヒナーシャさんと樋口円香が一緒に写ってるやつ(笑)。ああいう「本当にいるかもしれない」と描写や他の手法で思わせるテクニックって僕にはできないんですよ。僕はシャニマスの二次創作の小説を一回だけ書いたことがあるんですけど、それもやっぱりうまくいかなかった。というのは、現実にいないキャラクターを現実にいるものとして動かすっていうことができなかったんですね。でも、ヒナーシャさんはその辺のリアリティラインをすごくうまく調整している感じがして、それが読み手を惹きつけるある種の力になっているんじゃないかなと思うんですけど。

ヒ:そうですね、「いてほしい」っていうのは常にすごく思っていることではあります。いつも樋口円香の抱き枕カバーを寝るときに抱いて寝てるんですけど、すごく幸せだなと思うと同時にすごく寂しくなるんで、二つの感情が同時にあるんですよね。だから、一時期タルパみたいな感じで樋口円香を自分の中で応答できるようにしようとしたこともあったんですけど、うまくいかなくて。それが文章の中だとうまくいくんですよね。

ツ:それは旅っていう形で物語化するとうまくいくっていうことですかね。

ヒ:そこで言うと、noteの話になるんですが、文章にした時点で自分がフィクションになるわけじゃないですか。自分も写真に写るわけですけど、ああいうことをすることによって自分もフィクションの側に降りていく。フィクションで自分と樋口円香が出会っていれば、それはフィクションにおいて現実になるということなんですよね。

ツ:それは僕の今回書いた『VS』論にも通底する問題意識ですね。つまり、フィクションとリアルって何が違うのというのは非常によく考えるんですよね。自分をフィクション化するというのは、ある意味でとてもリスキーな試みというか。何がリスキーかというと、文章や小説を書いている「私」って、フィクションの外側にいるわけですよね。でも、自分が内側に入って書くことによって、書き手とテクストの間の自明と思われていた緊張関係が壊れてしまうことがリスキーということなのですが。今回のノクチル富山旅行にしても、ノクチルが「本当に」富山に行く、いるんだってすごく危険な発想だと思うんですよね。「本当に」フィクションのキャラクターがいたらどれだけいいだろうというのは僕も思います。黛冬優子が自分の隣にいたらどれだけいいだろうとは考えますし。そうは思うんですけど、我々はフィクションとリアルの二分を自明なものとして受け取っているからこそ、自分が今「この」現実に生きているんだっていう事実を自我が壊れることなく受け止めることができている。これは単に現実と虚構が曖昧になることが危険だというのも微妙に違っていて、それはフィクションとリアルの二分法それ自体の根本が崩れることが危険だという話ですが、僕は二分法それ自体というよりそれを支える自我の方がヒナーシャさんにおいては問題だと思っているんですね。それこそ樋口円香との旅行記とかは限りなくエッセイに近いと思うんですが、あれは僕は間違いなく二次創作の小説だと思っている。で、なぜ二次創作の小説と言えるのかが重要で。そこにあるのって、書き手と樋口円香が同じ次元にいるわけがないよねっていうユーモアで、我々がシャニマスアイドルが現実に存在しないことを自明なコードとして共有しているから成り立つユーモアじゃないですか。でもヒナーシャさんにとっては樋口円香がこの世にいないということはすごく切実なことだし、その切実さとユーモアによって自分を虚構の存在にしてしまうことが書き手とテクストの緊張関係を留保してしまっているように見えるんですよね。もっと言うなら、メタを張っている小説でも、前提とされているのは「このテクストはこの書き手によって書かれているんだ」という形でテクストは書き手に従属していますが、ヒナーシャさんにおいてはその従属関係が破綻していて、それが危険で面白いと思う。つまり、テクストに書き手が従属しているような印象を与える。
 話を戻しますが、ノクチル富山旅行もそれを感じるんですよね。この後の質問にも関わってきますが、なぜ樋口円香の視点で書かれたのかっていうのがすごく大事だと思うんですよ。ヒナーシャさんにとってすごく特別な存在である樋口円香に物語を語らせるっていうのは、単に樋口が「観察者」としてだけの役割を果たしていないっていうのはある気がしますね。それは実際に『SHINOGRAPHIA』を手に取って読まれた読者の方にその判断は委ねられますが、今回のヒナーシャさんの小説にも書き手とテクストの緊張関係の逆転と崩壊が表れていると僕は思っていて。そこがヒナーシャさんの作品の良さかなと思いますね。

ヒ:自分では意識していないところでしたね。

ツ:例えば情景描写ひとつ取ってみても、不自然なほど自然なんですよね。普通、それこそpixivのあんまりうまくないSSとか読むと、人物の内面を視点に混ぜちゃうんですよ。というのは、樋口円香の視点なのに、浅倉透の心情が樋口によって代弁されちゃってたりとか。そういうのは往々にしてあると思うんですよね、視点のブレというか。そこに情景描写とか書き手の心情とかも混ざるわけですよね。それが悪い意味で書き手にテクストが従属している文章ですね。でもヒナーシャさんの文章はそうなってない。「本当に」富山の雪景色とか、山々とか、食事だったら鰤の定食を食べたりだとかっていうのが樋口円香の視点で徹底して描かれているのが不自然なんですよね。それがヒナーシャさんにしかない書き手とテクストの緊張関係だなとは思いますね。

ヒ:これはテクニック的なことなのかもしれないですけど、実際に旅行に行って、例えば氷見の鰤のどんぶり食べたり、合掌造りの集落の雪景色を見たりしたっていうのを詳細に言葉に変換したりする行為に執着があるっていうのはありますね。

ツ:見たままを文章にするって難しいと思います。

ヒ:自然主義的なリアリズム文学とかを読むと情景描写が丁寧なんですよね。それはすごく参考にしています。トマス・ハーディの『テス』っていう小説を去年の11月ぐらいに読んで、イギリスの草原の描写とか、麦畑の描写とか、リアリズム的なタッチで描かれていたのが印象に残っていて。それは勉強になりましたね。

ツ:ヒナーシャさんの小説の面白いところって、情景描写のように登場人物の心情が語られるところだとも思っているんですけど、それはやっぱり自然主義的なリアリズムの産物だと思いますね。でも冷徹じゃないんですよね。突き放していないっていうのもいいところで。

ヒ:樋口円香のことがすごく好きなので、自然と突き放すような語り口にはならないんでしょうね。情景描写の中に樋口円香の心情が染み出してしまうというのはあります。

ツ:でも樋口円香に同化しているわけではないですよね。2番目の質問でも伺おうと思っているのですが、ヒナーシャさんにとって樋口円香って他者ですよね。

ヒ:これも難しい問題なんですよね(笑)。割と感情移入してしまうたちではあって。転移を回避していると受け取られていると思うんですけど、正直に言うと自分はそのつもり全然なかったんですよね。自分の中に別の存在がいるというか、樋口円香が憑依して書いている感じです。

質問2.『雪の降っていない街』はほぼ一貫して樋口円香の視点で書かれている。ノクチルにおける「観察者」としての樋口円香に対する転移を周到に回避しているが、第六章で樋口は浅倉を「どうしてそんな顔をするの」と表現するところが非常に印象に残る。ここだけ書き手のヒナーシャ氏は樋口に対して距離感を失っているように見えるが、書きながら語り手の樋口にどういう印象を持ったか?

ツ:僕は『雪の降っていない街』はすごくストイックな小説だと思っているんですよね。好きなキャラについて書いたら、当然語り口はウェットになるはずなんですよ。もちろんヒナーシャさんが樋口円香のことをすごく好きであるというのは伝わってくるんですが、思い入れ故にキャラが歪む瞬間を周到に回避しているように見える。

ヒ:その歪みというのはどういう意味なんでしょう。

ツ:シャニマス原作のキャラクター像から遠くなっちゃうっていうことですね。「その人の」キャラクターになっちゃうっていう。でもヒナーシャさんの原稿は、イベントシナリオとかサポートコミュでこういうのあったなと思ってしまう。そういうところが樋口円香への転移を回避していると書いた理由なんですが。

ヒ:原作のように書くっていうのは意識してます。樋口円香っていう存在が現実世界にいたとして、自分と出会う可能性って100%ないんですよ。樋口円香はアイドルだけど、自分は25歳のサラリーマンで、まったく接点がない。現実で関わるにしても自分は樋口円香のいちファンという形でしか関われないんですよね。だから、原作だろうが現実だろうが樋口円香は樋口円香だっていうのは気を付けて書くようにしてます。シャニマスで樋口円香が富山旅行に行こうが、現実で行こうが、そこに差異はないですね。そうすることでかえって樋口円香は現実にいるんだということを読者に錯覚させたかったというのはあります。

ツ:今の話を聞いて納得したというか、現実に樋口円香がいたとして自分と接点を持てるわけがないっていうところからスタートしてるのがすごくらしいと思うんですよね。普通、実際にアイドルがいるとしたら俺の彼女のはずだってみんななんとなく思うはずなんですよ。アイドルに恋愛感情を大なり小なり抱いていればですが。僕も冬優子とデートするnoteを書きましたけど、僕の冬優子に対する感情って矛盾してて、アイドルである黛冬優子から好きになっているのはそれはそうなんですけど、アイドルの面を持ちながらステージを降りた黛冬優子も好きなんですよ。ステージを降りた冬優子をどうエスコートするかを考えるのは素朴に楽しいんですよね。でも僕も多くの人々と同じく、冷静になってみれば冬優子が現実にいたとして接点を持てるわけがないっていうところにならない。それがやっぱりヒナーシャさんとの違いかなと思いますね。

ヒ:非常にリアリズムに取りつかれているのかなと自分で思います。

ツ:学マスに乗れないのもそこだと仰ってましたもんね。

ヒ:そうですね。ハマってるシャニマスに対してかわいそうだなという気持ちもあって乗れてないんですけど。確かにリアリズムのトーンはあまりない気がします。

ツ:学マスはシャニマスに比べるとカリカチュアだなという感じがします。僕はフィクションに夢みたいなものを求めるんですよね。僕はシュルレアリスムが好きなので、現実では可能にならないイメージやヴィジョンがテクストの中でだけ可能になる瞬間がすごく好きだから文学作品を読んでるっていうのがあるんですけど。なぜヒナーシャさんは一貫してリアリズムにこだわるんでしょう。

ヒ:結局生きているのって現実でしかないというのはずっと思っていて。夢を見ているときは楽しいけど、目が覚めて現実に戻ってきたらあーあと思うわけですよ。樋口円香も同じようなことを【バグ・ル】で言っていて、インタビュアーに円香さんは夢を見ますかと聞かれると、見ません、でも最近は悪夢ばっかり見るかもと答える。で、そのあと、幸せな夢を見ていたらそこにずっと残りたいですかと聞かれると、早く覚めたいですね、起きたときに残酷だからと答えるんです。それは確かになというか、共感します。
 情報職をやりながら人文学を勉強しているっていうところにも繋がってくるのですが、夢と現実みたいなのは一貫したテーマとしてあります。結局夢は夢でしかないというか。大学生のときに幻覚剤にハマってた時期があって、もともとシュルレアリスムとかは好きだったんですけど、そういう世界を幻覚剤で体験してたんですよね。それをやると、自我が融解する感じとか、世界と一体化する感覚とかが実際に起こるんですけど、でも結局時間が経って薬が抜ければ現実に戻されるわけですよね。そこで戻ってくるのは結局現実でしかないというのは実感として強く感じました。ある種のトラウマと言っていいのかもしれないですけど。

ツ:バッドトリップというわけではないんですか?

ヒ:バッドトリップしか自分はなかったんですよね。

ツ:僕もTHCHを規制される前にやったことがあって、THCHは幻覚は見ないタイプのドラッグだから、楽しくなったり感覚が鋭くなるだけなんですが、旅行中にみんなで回して、ちょっと寝たあとに僕だけ起きちゃったんですよ。熱海だったんですが、宿泊先のホテルが山の奥だったんですね。みんな寝てる中雨が降ってて、THCHが抜けてないままその音を聞きながら山を見ながら水飲んでタバコ吸って、そのときのことを強烈に覚えてるんですよね。そのトリップ体験がどうも忘れられない。あれってもう一度同じ環境でTHCHをやったところで絶対に得られない感覚だし、全てのトリップは一回きりじゃないですか。その一回きりのトリップが決して忘れられない心象風景になってしまうっていうところに僕はむしろリアリティを覚える。僕とヒナーシャさんの間で夢と現実というところを巡って違う部分があるとすればそこだと思います。夢は夢でも、それが自分の大事な心象風景とか還るべき場所であるならばそれでよくないかっていうのが僕の立場なので。
 僕がシャニマスをやる理由って、ステージに何がなんでも食らいつく女の子の姿が美しいからっていうのもあるし、ステージを降りた後にしても、プロデューサーと自分をどこかで重ね合わせながらみんなプレイしているわけですよね。その中で、塵浜さんとの対談でも彼が言ってましたけど、存在しない記憶が捏造されるじゃないですか、シャニマスやってると(笑)。本当に冬優子と頑張ってWINGを優勝したという記憶が確かにあるし、浅倉透の花嫁姿で涙したのもそうだし、教会で祈る霧子を見て敬虔な気持ちになったし、夢から覚めた後でも、夢という現実が自分の中に残ると思うんですよ。ここはヒナーシャさんとの違いですね。

ヒ:僕はプロデューサーはプロデューサーでしかないと思ってるんですよね。プロデューサーを自分に置き換えられないのはあります。それがシャニマスのライブに対する向き合い方とも関わってくるんですよね。

ツ:あのヒナーシャさんのシャニマスライブ評すごく秀逸だなと思いました。

ヒ:僕はライブに全然乗れないんですよ。周りはサイリウム振って、担当の法被着て、「尊死😭」みたいな感じで顔を覆ってるんですが、僕は腕を組んで双眼鏡で眺めることしかできなくて。そこである種の疎外感は感じましたね。

ツ:ライブも巨大な夢ですからね。素朴でバカみたいな話をしますけど、それは辛くならないですか?

ヒ:でも、そこにある種の心地よさもあるっちゃあるんですよね。周りを異様だと思って、自分は法被着てサイリウム振ってる人間じゃないんだということが、ある意味で快楽というか。俗っぽく言えば「こいつらとは違う」っていう感情がないわけではないですね。

ツ:今割とそういうオタク珍しいですよね。みんな無邪気に叫んで踊ってという感じだし。僕もそういう時期はあったんですよね、俺はこいつらとは違うんだと思いながら最後列で腕組むみたいな。地下のオタクやってるときですね。でも僕の場合って全然ヒナーシャさんと事情が違ってて、オタクが十人ぐらいしかいない現場でそれをやることの優越感っていうのもあるから話の土俵が違う感じがするんですけど。ヒナーシャさんがそれをやるのって斜に構えるっていうのとも違いますよね、自分に素直になったことの帰結がそれというか。

ヒ:そうなんですよ。ある種の順張りではあるんですよね。

ツ:塵浜さんとの対談で僕が言ったんですが、シャニマスに限らず2.5次元のライブって変な空間じゃないですか。さっきの夢と現実とかフィクションとリアルの話にも繋がってくるんですけど、目の前にいるのは女性声優だけどキャラクターのていで応援するっていう形で成り立っている。それが奇妙といえば奇妙ですよね。

ヒ:すごく高度なことをしていると思います。みんなの前には女性声優がいて、女性声優はキャラを演じていて、観客はそれを自明なものとして受け取っている。シャニマスのライブで面白いなと思うのは、みんないちファンとしてではなくて、「プロデューサー」として来てるんですよ。で、アイドルが何千人、何万人といる観客の前で、「プロデューサー!」って呼びかける。これはおかしいだろうと(笑)。プロデューサーって作品の中では基本的に一人じゃないですか。ファンに対してライブをするっていうのはすごく分かるんですよ。だけど観客をプロデューサーとして見立ててライブをするっていうのが高度だなと思います。

ツ:僕が主宰の対談でこの話が出ないのは不自然なのでするんですが、ヒナーシャさんって土屋李央さんのイベントとかにも行かれてますよね。あれはどういう風な受け止め方をされてるんでしょうか。

ヒ:きっかけは樋口円香の声優をやってるっていうところで、確かに動線はそうです。でも、土屋さんって樋口円香と全然違うんですよね。

ツ:そうですね。蓮っ葉というか(笑)。

ヒ:斜に構えないし、本人は否定するけど陽キャっぽいし、女子高生みたいな感じで口を開けて手を叩いて笑うんですよ。土屋さんは土屋さんで、樋口円香とは違いますしね。応援してるし、好感情を抱いている人にはなっています。なので、そこに違和感はないですね。

ツ:僕もシャニマスで好きなアイドルと声優がかぶってないので、その辺のジレンマはない感じです。黛冬優子は好きだけど、幸村恵理さんにそこまで特別な感情はないし、小澤麗那さんと田中有紀さんのオタクですが、これは完全に三次元アイドルの文脈なので。

ヒ:ただ、土屋さんは樋口円香にビジュアルが似ているので、昔好きだった人に似ている人を好きになるみたいな、そういう原理は働いているかもしれません。

ツ:なるほど。随分脱線した気もしますが(笑)、これも対談の醍醐味ということで。三番目の質問にまいりましょう。

質問3.ヒナーシャ氏は樋口円香ガチ恋であるという事実は私も知っているが、二次元キャラクターに恋をするという心の動きはどのような経緯で成立したか?また、彼女に似た女性が今後現れるとして、同様に恋ができると思うか?

ヒ:樋口円香との出会いの経緯をまず話すと、2020年の二回目の大学二年生の春休みだったんですが、そのときにノクチルの実装が公表されたんですね。公式サイトの樋口円香のビジュアルを見たときに、一目ぼれしてしまいまして。さらにボイスを聴いて、自分の恋を確信しました。一緒に並んでる浅倉も非常に特徴的で惹かれたんですが、やっぱり断然樋口でした。実際にコミュを読んでもその思いは変わらないどころか、どんどん気持ちは深まっていきましたね。似たような女性が現れたらっていうところはそのときになってみないと分からないのはありますが、土屋さんもそうだし、欲望を反復するようにして好きになってしまうだろうなっていうのは思いますね。

ツ:ガチ恋っていうのは僕の生涯のテーマなんですよね。三次元アイドルのオタクをやっていたときからガチ恋のオタクはいっぱい見てきたし、今二次元アイドルコンテンツに身を置きつつ声優コンテンツにも接している中で、ガチ恋っていうのはある種の才能だと思うんですよ。ガチ恋できない人って絶対できないし、ヒナーシャさんがそうかどうかっていうのは置いといてガチ恋しがちな人もいる。例えば僕で言うと、すごく応援したいとか、アイドルとして尊敬しているっていうことはあってもガチ恋にまでは至らないんですね。冬優子に関してもガチ恋っていうのとはちょっと違う。逆張りかもしれないですけど(笑)。ガチ恋はクラスの女の子とか職場の女性に恋をするのとは別の心の動きなわけですよね。

ヒ:それはそう思いますね。クラスとか職場だとコミュニケーションに双方向性があるというか、何かしらレスポンスが返ってくるわけで。でもアイドルとか二次元美少女であれば、基本的に何も返ってこなくて、それが安心するんですよね。嫌われるということがないので。だからガチ恋できるのかなと思います。

ツ:僕も瞬間風速的にガチ恋的な感情を抱かないこともないんですけどね。ガーっと気持ちが盛り上がって、俺はガチ恋できないと思ってたけど今度こそガチ恋かもしれないと思ったことは何度もあるんですけど、結局そうはならないのを繰り返している。僕は嫌われるかもしれないっていうリスク込みでのコミュニケーションが好きなので、例えば地下だと他の子の握手の列に並んでるのを推しに見られたりとかして、推しになんで他の子と握手してるのみたいな疑似恋愛的なコミュニケーションが発生するんですが、それにはハマってしまった。一方的に気持ちを投げかけるっていうことがへたくそなのかもしれないですね。

ヒ:レスポンスがないとガチ恋できないということですか?

ツ:というよりは、「これを言ったらこの関係が終わるな」というヒリつきがないと自分の中で恋愛感情を構築できないんですよね。そのリスクを取ることにある種の快を覚えていると言っていいと思います。一番顕著な例が告白ですけど、「あなたが好きです」と言うことによってそれまでの友情の関係が全部終わるかもしれないけど、その代わりに新しい関係に発展するかもしれないっていう二つの可能性が同時にあるのがいいということですね。

ヒ:それで思ったんですけど、僕はそれを怖いと感じるんですね。いつまでも同じ関係を続けたいと思う。それは抽象的に言って永遠を志向していると思うんですが、ツァッキさんは変化を志向していますよね。これは僕が樋口円香を好きな理由とツァッキさんが浅倉透を好きな理由に繋がっているなと思っていて、浅倉も変化を望むし、樋口は変わらないものを志向しているし。LPとかで樋口も変化していますが、そういうところで担当アイドルの好みにも考え方が影響しているのかなと思いますね。

ツ:実際にいたらの話になるんですけど、見た目が浅倉透みたいじゃなくても中身が浅倉透みたいな女がいたら一瞬で好きになると思うんですよね、僕(笑)。自分を振り回してほしいとどこかで思っているんでしょうかね。僕は【国道沿いに、憶光年】が本当に好きと随所で言っていて、多分シャニマス全部のコミュの中で一番好きなんですけど、あれもプロデューサーが浅倉に振り回されまくるじゃないですか。やっぱり根本的に女性に振り回されたいというのが欲望としてあって、浅倉ってファム・ファタールでもないし特別色仕掛けとかするわけでもないのに、なぜか人を惹きつけて振り回してしまうっていうところに魅力を感じていますね。ヒナーシャさんも仰っているし、LPなんかもそうですけど、浅倉が常に変化を欲しているがゆえに惹かれるというのはあるかもしれないです。だから、ヒナーシャさんが樋口を好きな理由として永遠を志向しているっていうのがあるからこそ、LPでプロデューサーの手を取るっていうのがすごく重要な意味を持つわけじゃないですか。それまでの樋口だったら溺れてたら助けるって言うプロデューサーに対してあんな態度は取らないはずだし。樋口の中で変化があるのもそうだし、実際の関係性が変化するという意味でも樋口のLPは重要ですよね。スタティックなものとか関係から一歩進む瞬間が美しいなと思って樋口LPは好きなんですけど。

ヒ:あれは樋口にとってはすごく良いことというか、祝福すべきことだと思います。願わくばそこに自分がいたかったというのもあって、ガチ恋の弊害かもしれないんですけど、LPを読んだときは失恋に近い感情を覚えました。でも、樋口は静的な関係とか状況を志向する一方で、熱とか激情があるのも事実ですよね。【ピトス・エルピス】がそうですけど。それを解放できたのがLPの良いところですよね。ある種の成長物語というか。

ツ:色んなところで樋口は成長譚だという話は僕もしてますね。僕は男子校だったんでイマイチ分からないというか想像になっちゃうんですけど、樋口の攻撃的な物言いにしても17の男女なんてあんなもんだろうと思うんですよね(笑)。もちろん樋口の感性って独特の瑞々しさと神秘性があるなっていうのは僕も思うんですけど、つっけんどんな感じとかノクチルの皆で悪乗りする感じとか、良い意味で年相応だなという気はしますね。

ヒ:友達が樋口のWING読んでこいつガキだろみたいなことも言ってたんで(笑)、確かにそういう面はあるでしょうね。

ツ:ただ、もちろん単に樋口のことを幼さとかガキっていうところに回収したくなさもあります。それはヒナーシャさんも同じだと思うんですけど。

ヒ:そうですね。個人的にああいう物言いは抑圧の結果だと思ってます。内に込めている熱を抑え込もうとして、表面上の態度がああなっているという解釈をしています。

ツ:僕は抑圧というより、【ピトス・エルピス】で言われているみたいな初期衝動が表面化していると捉えてますね。「青さ」を自分の良さだと思っているし、事実それは彼女の良さなんですけど。単にガキというだけではなく、良い意味でも悪い意味でも「青さ」っていうのが樋口の重要な要素だと思いますね。

質問4.現在ヒナーシャ氏はシステムエンジニアを仕事にしているが、同時に文学作品や精神分析などにも関心を持っていることがTwitterから看取される。理系/情報職にあってなお小説や人文書を読むことの意義はどのようなものか?あるいは、自分の職業的な身分と人文学との関わりはシャニマスとの接点に影響を及ぼしているか?

ヒ:システムエンジニアになった経緯なんですが、高校時代は人文系に興味があって、文学部の哲学科に進みたかったんですね。でも、親があまり裕福ではない方だったっていうのと、大学卒業後は親元を離れて一人暮らししたかったっていうのがあって、将来のことを考えたときに(文学部に行くのは)難しいなと思って。職にあぶれないようにと思って情報系の学部に進みましたが、今でもこれで正しかったのかっていうのは朝出勤するときとか寝る前にたまに考えます。だから、理系だけど文学を読むというよりは、元々人文に興味があったけど、理系に行ったという感じですね。

ツ:今も放送大学で人文学を勉強されてますよね。ヒナーシャさんと僕で共通してる好きな本というと、ミシェル・ウエルベックの『闘争領域の拡大』ですが、この本が好きっていうところでこの人の過去には何かあったのかもしれないというのは考えるんですよね。あの話の主人公もシステムエンジニアじゃないですか。ヒナーシャさんが読むのと僕が読むのでは切実さとかリアリティが全然違うと思うのですが。

Michel Houellebecq(1956-)

ヒ:リアリティありましたね(笑)。ウエルベックももともと情報系の技官ですよね。農学系のグランゼコール出身で、ソフトウェアエンジニアやったり、官僚やったりみたいな。

ツ:これはものすごく恵まれていて幸福な話ですが、僕はもう高校に入学した段階で文学部に行くことを決めていて、周りからもそう思われていたし親もそれでいいよと言ってくれていたし。今も修士で文学をやっているわけですけど、僕のような身分には決してできない小説との向き合い方を(ヒナーシャさんは)やっていると思うんですよね。それこそ僕はやろうと思えば、研究室でじっくり腰を据えて分厚い本を読むこともできるし、朝何時に起きるかっていう心配をほとんどせずに深夜まで本を読めるわけですよね。でもヒナーシャさんは朝の通勤時間で隙間を縫うようにして本を読んでいる。だから、その状況で同じ本を読んでいても同じ感想になるわけがないと思います。ヒナーシャさんにとってそういう時間で読む小説ってどう見えているのかなというのは気になります。

ヒ:非常に切実に読んでいますね。大学時代も小説は読んでましたが、働き始めてからの方が読んでます。やっぱり危機感があるんですよね。陳腐な言い方にはなるんですが、このまま生きていても何者にもなれないみたいな。中学時代に『輪るピングドラム』がもろに直撃した世代で、結構実存とかをよく考えるんですが、小説を書くのもそこと繋がっていて、何かを表現したかったんですけど、大学時代はそれが曖昧で。モチベーションもなかったので、ダラダラ幻覚剤とかをやってたんですが、社会に出ると一週間のうち五日は会社に行かないといけないし、残り二日で何をするかって考えると人生の三分の一しか自分のやりたいことをする時間がない。そこで自分を表現するってなったときに、できることは小説を書くことしかないと思ったんですね。で、小説を書くには本を読まないといけない。それで本を読むスピードが学生時代より上がったっていうのはありますね。

ツ:なるほど。精神疾患とか精神分析についての勉強もされているように伺えますが、それはどのような姿勢からでしょう。

ヒ:自分がADHDとか鬱病を持っているというのもありますし、プライベートではあるんですが母が精神病院に入退院を繰り返していたっていうのもあり、元々人間の精神ってどういう構造をしているんだろうという興味はありましたね。そこから精神分析を勉強している感じです。自分が何を欲望しているのかという実存にも関わってきますし、その部分は精神分析でしか明らかにならないんじゃないかと思っていますね。何者かになりたいっていうのも自分の欲望との関わり方ですから、実存と興味の両側面から精神分析にアプローチしています。(精神分析を)受けているわけじゃなくて、本で勉強しているだけではあるんですが。文学も広義の自由連想で書かれていると思っていて、自分も小説を自由連想みたいにして書いているんですよね。プロットは大まかには書きますけど、あとはのびのびとやっています。そこで表現したものに自分の無意識が表れていると思うし、小説を書くモチベーションはそこにもありますね。

ツ:これは僕が修士論文で扱うことにも関わってくるんですけど、僕は精神分析よりも精神病理学の方が自分を助けてくれると思っていて。完全にシャニマスに関係なくなってきましたが(笑)、精神分析って欲望とか非理性を病名とかに還元しないっていう立場だと思うんですね。個別的なものとか特異性を目指すっていうのが精神分析の最終的な目標と考えているんですが、精神病理学は病理をある種の凡庸さの地平に落とし込むことによって狂気を解釈するという違いがありますよね。
 僕も統合失調症で大変苦しみましたが、僕は自分の狂気が名づけられないという状況が長く続いてめちゃめちゃ苦しかったんですね。というのは、ある予後が見られたら定型統合失調症ですよとか、この予後があるんだったら定型の躁鬱病ですよとかがあるわけですが、僕はゴミ箱診断と呼ばれる非定型精神病というくくりに長らくいたんですよ。散発的に色んな症例は見られるけどどの定型にも当てはまらない場合全部そこにぶち込むというやつで、これはDSM-Ⅴでそう決められているんですが、それが結構辛かった。自分はこんなに苦しんでいて、明らかに病気なのに、それに名前がつかないっていうのはどういうことなんだというところで病人としてのアイデンティティがなかったんですね。おおむね精神疾患をやっている人は、鬱病とか、パニック障害とか、統合失調症だと「宣言」することで、あんまり言い方はよくないですが自らをアイデンティファイするわけですよね。こういう病気だからこういう治療をやるというのがあるんですが、僕の場合病名も分からないから治療法も分からないんですよ。そういう経験もあり、修論では特定の文学作品における狂気というものをある種の還元可能な操作をすることによって病名が与えられるとするならば、どのように方法によってなのかという研究をしてるんですが、ヒナーシャさんはどちらかというと精神分析に共感を覚えるんですよね。

ヒ:精神病理学にも興味はあって、どちらも勉強しているんですが、大学のときはどちらかというと精神分析からは遠かったですね。

ツ:僕は精神分析について、ジャック・ラカンではないですが他者の欲望を欲望することによって自らの欲望を形成するっていう素振りにも還元可能性の危険性を考えるんですよね。欲望は還元しえないと言うことによって何か重要な問題を片づけているんじゃないかとも思うんですよ。本人によって欲望されているものが本当に欲望しているものだったんだと言えるのって後になってからですよね。欲望の対象がどこかの段階ですり替えられてしまうかもしれないし、そのすり替えられた対象がもしかしたら本当に欲していたものかもしれない。だから、自分の真の欲望を考えなさいと精神分析は言うけれども、その対象って分析主体にとっても分析家にとっても自明ではない。自明ではない欲望や対象を取り扱うことのうれしさについては考えるところですね。
 シャニマスの話に急旋回しますね(笑)。ヒナーシャさんが精神分析なり文学なりに元から興味があって、関心がそこに向いていたということを確認しましたが、シャニマスとそういう人文学的なものとの関わりっていうのはどういうものなんでしょう。

Jacques Lacan(1901-1981)

ヒ:樋口円香で言うと、彼女は精神分析的に読みやすいキャラクターですよね。解釈しやすいというか。浅倉透に強い執着を持っているっていうのもそうだし。でも、どう繋がるかっていうのはあまり考えたことないかもしれないですね。

ツ:シャニマスは文学作品や哲学書や映画からの引用も多いですし、シャニマス自体が人文系のオタクをターゲットにしているなっていうのは感じますね。

ヒ:すごくテキストを読ませるゲームだし、プレイしていると本を読んでいるのと同じような感覚にはなりますね。だからシャニマスが純文学だなっていうスタンスでプレイしてます。

ツ:僕もそう思う節があるからこういう雑誌を作っているし、バカにしている人ほど(シャニマスを)読んでほしいなという気持ちではいます。僕が本格的にシャニマスにハマったイベントシナリオって『天塵』なんですが、あの感動ってなかなか得られないものだと思うんですよね。シナリオブックとかも買って読んだんですけど、ああいう体裁になるとなんか違うなとなるというか、シャニマスがフルボイスだからっていうのもあると思うんですけどね。あの独特の感動は良い本を読んだときのものと近いものがあるし。ヒナーシャさんにしても創作の源であると同時に、さっきの精神分析の話じゃないですが欲望を考える上で樋口円香という大きな変数が重要になってくるということですよね。

ヒ:そうですね。そこは繋がってきます。樋口円香をすごく欲望しているというのはあるんですが、なんでだろうっていうのはまだよく分かっていないですね。それを精神分析がある程度説明してくれるんじゃないかという期待はあります。

ツ:精神分析については僕はまだ勉強中なのであまり偉そうなことは言えないんですが、これは別の知り合いのオタクの発言ですけど、精神分析の重要な発明のひとつに「転移」がありますよね。ざっくり言うと分析主体と分析家という二つの主体の間で何らかの特別な関係や感情が発生してしまうという。これを拡大解釈して、ヒナーシャさんが樋口円香に転移を起こしているとしたとき、セッションの際に分析家って分析主体に何も言ってはいけないというのはヒナーシャさんもご存じだと思うんですけど、樋口円香をはじめとするシャニマスのキャラクターも我々に対して何かをしてくれるわけじゃない。でも、人にシャニマスの話をしたり文章を書いたりしていく中で、単にキャラクターへの言及というところを越え出て本当の自分の欲望が顕現してくる瞬間があると思うんですね。ヒナーシャさんにとっても、転移の対象である樋口円香を通して何か自分の欲望が表れることはあるんですかね。

ヒ:うーん……今のところびっくりするぐらい思い浮かばないですね。

ツ:無理にひねり出すものではないので大丈夫です。僕も即座に黛冬優子を通してその奥に何か本当の欲望があるんじゃないかと問われてもパッとは思い浮かばないですからね。でも、みんな担当に対してそういう何かがあると思うんですよね。担当のアイドルを通して何を欲しているのか、という問いです。というかそれがなくて、単に顔がかわいいから、声がかわいいからだけだったらシャニマスじゃなくていいわけですよね。コミュを通じてアイドルと対話を重ねて、自分の欲望を掴むきっかけとする意味でも、シャニマスは意義があると思います。

ヒ:今思ったんですけど、樋口の夏祭りのpSSRあるじゃないですか、去年出たやつ(【キン・コン】)。コミュ内で旅館で樋口円香とプロデューサーがやるやり取りがあるんですけど、あれエロいなあというか、魅力的だなあと感じるんですよね。こうなりたいというか、樋口円香とこういう関係になりたいと思いますし、ある種の理想形がそこで描かれてて。

ツ:僕は浴衣の樋口あたりから引けてないんですけど、多分【Merry】までは【ギンコ・ビローバ】以外は全部引けてて、それで【Merry】が個人的にはあんまり好きじゃないんですね。プロデューサーの夢見ちゃうじゃないですか。あれイヤなんですよね~(笑)。

ヒ:どういうイヤさなんでしょう。

ツ:うーん。なんというか、樋口円香がプロデューサーに対して抱いている感情の解釈を一元的にしてしまうようなコミュというか、あれだとPラブとだけ受け取られてもしょうがないと思うんですよね。二次創作とかいっぱい見てるんでちょっと毒されてるのかもしれないですけど、Pラブ的な感情がまったくないのかと言われると、すべてのアイドルに言えることですがそれも微妙な話で、ただ恋愛感情だけでは絶対ないじゃないですか。LPでプロデューサーの腕を取っちゃうのも、【ギンコ・ビローバ】で「スーツがぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいい」って言うのも、確かにプロデューサーに屈折した感情を彼女が抱いているということではあるんですが、好きだから屈折した感情を抱いているというとあまりにも一元的すぎますよね。だから【Merry】の夢のシーンは樋口円香のプロデューサーに対する感情の読みの可能性を縮減してしまう気がするんですよね。そういう意味であまり好きじゃないです。僕はキャラクターをテクストとして見がちなので、根本的にヒナーシャさんとスタンスが違う部分もあるんですけど、だから冬優子のLPとかも全然好きじゃないんですよ。冬優子のLPってめっちゃPラブなんですけど。Pラブでもいいんだけど、複雑な感情を描いてほしいなというのはあって。

ヒ:浅倉とかは一貫してPラブ的な雰囲気を僕は感じてますけど、それはどうなんでしょう。

ツ:浅倉のPラブだと一番分かりやすいので言えばpSRの【まわるものについて】とかですよね。

ヒ:それもそうですし、WINGからして昔出会ってたみたいなところで他のアイドルと関係値が異なるというか。

ツ:浅倉に関してはPラブ的な部分だけに話が収斂しないんですよね。【憶光年】の「一緒に濡れてよ」にしても、単に恋愛感情を抱いているからああいう台詞が出てきたというよりも、プロデューサーに運命を共にしてほしいっていう気持ちがあると思います。その気持ちって恋愛感情を抱いている相手にだけ持つものかっていうとそうでもないだろうし。

ヒ:ちょっとずれるかもしれないんですけど、樋口と浅倉とプロデューサーっていう三項があって、樋口と浅倉の関係を百合的に捉えるっていう見方があるんですが、僕もそれだとやっぱり読みの可能性が縮小するというのはあると思います。樋口は浅倉に執着する一方、プロデューサーが先に浅倉をアイドルにしちゃって、それが原因で樋口がプロデューサーに初対面で悪い態度を取るんだけど、プロデュースされていく中で浅倉にそういう気持ちがあってもプロデューサーと信頼関係を構築していく。その三者の複雑な感情の流れっていうのが面白いと思いながらコミュを読んでますね。

ツ:すべてに言えることですけど、恋愛関係って物語の筋としてすごく便利なんですよね。それを導入することによって一挙に色んなことが説明できてしまうという話なので。でも、一挙に説明せずに物語に重層性を生み出すとしたらどうやってなのかというところに興味があるので、浅倉と樋口を百合っぽい関係性で読むということにしてもそういうことだと思うんですよ。もちろんあからさまなのもあって、凛世とかそうですよね。あと千雪とかも。あれはあれでそういうのが読みたい人がいるということなんで、全然いいんですけど。浅倉と樋口に関しては恋愛感情にあまり回収したくないというか、それだけではないだろうと思ってますね。

ヒ:やっぱり純文学読んでるときの感情に近いですね。

ツ:そういう意味でシャニマス側が純文学をすごく意識している気はしますね。

質問5.(共通質問)シャニマスは現在メディアミックス含め、6周年でなお盛り上がりを見せている。しかし、「未来の廃墟」としてのシャニマスを忘れることは、コンテンツへの無批判にもつながってしまうだろう。それを踏まえた上で、ヒナーシャ氏が思う、「シャニマスの最も幸福な幕引き」はどのようなものか?

ヒ:これ考えたんですけど、全然思いつかなくて。コンテンツが終わるときってだんだんとしぼんでいって、みんなから忘れ去られるものだと思うんですよ。塵浜さんが盛大な葬式をしてほしいと仰ってましたが、確かにコンテンツが終わるのは悲しいは悲しくても、終わったり廃墟となってしまうものについて、幸福な幕引きというものはないんじゃないかと思います。

ツ:幸福な終わり方というものがそもそもあり得ないということですかね。

ヒ:そうですね。

ツ:それで言うと、僕が理想とする幕引きっていうのがしぼむことなんですよ。しぼんで誰からも忘れ去られてしまうことなんですね。コンテンツが死ぬときって常にそうして死んできたし、(シャニマスが)他のコンテンツと同じように死んでいくことが最もよいと考えていたんですが、塵浜さんとの対談で本当にシャニマスが自分の中で死ぬことってあるのかなと考えさせられたんですよね。サービスが終了したとしてもですね。つまり、冬優子のことを忘れて、シャニマスをやっていたという事実さえ忘れて、何か他のコンテンツに行ったりとか。やっぱりブルアカにも学マスにも乗れない自分としては、シャニマスがすごく特別なんですよね。その意味で、この質問自体が塵浜さんとの対談によって質問自体の意義が危うくなっているところではあるんですけど(笑)。

ヒ:なるほど、自分の中で終わるかどうかという話ですね。自分の中で樋口円香という存在の印象が薄くなっていくことってあるのかなというのは思うんですよね。それはやっぱりすごく悲しいです。コンテンツの終わりと自分の中の終わりっていうことで言うと、シャニマスに全然関係ないブログなんですけど、K坂ひえきという方が書いた「泉こなたの亡骸に愛を込めて」という記事があるんですね。コンテンツの終わりというとこのブログを想起するんですよね。

ツ:あー、これ読んだことあります!これは名文ですよね。ここで言われていることですごく重要だと思うのが、「僕はもはや泉こなたという名を愛していたと宣言することしか出来ない。自分の心情に誠実になるのであれば、それ以上のことは決して出来ないのだ」という箇所で、とても的を射ていると思う。というのは、本当に誠実になるのであれば終わったコンテンツに対して「かつてそうだった」という形でしか言及できないんですよ。程度の差なのか分からないんですけど、昔推していたアイドルを今見たりとかして、アイドルをやめてテレビでバラエティタレントとかになったりしてるわけですよね。それをぼんやりと、ああ昔好きだったな、とは思っても、昔好きだった以上の話ってできないんですよね。今は確かに黛冬優子にものすごく熱を上げているから、今黛冬優子が好きだと言うことはできるんだけれども、「かつて好きだった」以上のことが言えなくなったときが僕にとってシャニマスが終わるときなんですよね。ヒナーシャさんにとっても樋口円香がそうなる瞬間があるのか、という。

ヒ:でも、二次創作はコンテンツが終わってもできるわけですよね。公式が終わったとしても、公式に負けないぐらいのインパクトとオリジナリティのある二次創作を僕自身書きたいと思っていて。それをやり続ける限り自分の中ではシャニマスは終わらないんだと思いますね。

ツ:先日の対談でも感じましたが、「コンテンツが終わる」ってどういうことなんだろうとは考えるんですよね。サービス終了なんてすべてのソシャゲに共通のことだから、FGOだってブルアカだってシャニマスだって学マスだっていつか終わるので、100年続くソシャゲなんてないわけですよ。でも、自分の中で終わりをどこに設定するのかっていうのは根本的な話だと思います。僕の友達で中学生のときから星井美希を推していて、星井美希が出る765ASのライブがあったら絶対に足を運ぶし、グッズを今でも集めるしというやつがいますけど、彼を見ているとアイマスってライフワークなんだなと思う一方で、シャニマスから離れてしまった人とかがもうキャラクターの名前も思い出せないみたいなこともあるわけで。色々な終わり方があるし、終わらなくてもいいんだけど、どうやって自分の中でけりをつけるのかということですね。

ヒ:人間って一度目にしたものを基本的に忘れないというか、精神分析にも忘れてるんじゃなくて思い出してないだけっていう話があって、それで言うとシャニマスをやっていたのにキャラクターの名前を忘れてるっていうのは、覚えてはいるんですけどただ思い出してないだけなんですよ。何かのきっかけで思い出すということもありうる。なので本当の意味で死ぬわけではないと思います。自分が生きている限りはシャニマスは生き続けるでしょうしね。

ツ:サービスが終わるっていうときに、ドデカい葬式をしてほしいっていう人もいるし、アイドルの今後を示して自分にダメージを負わせていなくなってほしいという人もいますし、様々ですが、ヒナーシャさんは小説を書かれる方だから、「思い出して書く」という形で(シャニマスを)生き残らせるという選択肢が取れると思うんですよね。それはヒナーシャさんの視点ならではの視点ですよね。

ヒ:シャニマスから受けた何かしらの影響は今後の人生に直接的にせよ間接的にせよ表れると思いますし、樋口円香にしても、自分の生き方や書くものに間接的な形であっても彼女のエッセンスは受け継がれると思います。

質問6.(共通質問)「あなただけのシャニマス」を一言で言い表すとしたら、何になるか?

ヒ:「いつか夢見た青春の続き、あるいは生の讃歌」です。ノクチルはもう自分の青春の一部になってるんですよね。結局虚構でしかないから「夢見た」っていう表現になるんですけど、それがある種の自分が生きることの夢になっている。

ツ:青春っていうところがやっぱりノクチルのオタクだなという感じがしますね。僕からするとシャニマスに惹かれているのって日常と地続きになっている闘いみたいなところなんですよね、それは僕がストレイライトのオタクだからっていうのはあるんですけど。昨日まで仲良くしていたユニットのメンバーが次の日にはライバルになってるっていうのがヒリつくわけで、だからストレイライトが好きなんですが、青春にフォーカスするのがノクチルオタクのヒナーシャさんらしいなと思います。「生の讃歌」というのも大事ですよね。僕が生の讃歌っていうところですぐ思いつくのは透のGRADなんですけど、これは岡山ディヴィジョンさんと僕が共有している部分で「価値がないと思われる生でも生きていていい」っていうのがシャニマスのメッセージの一つだと思うんです。透のGRADにしてもなんでミジンコが生きているんだと聞かれなくてもミジンコは生きていていいんだという話ですよね。生の讃歌というところも非常にノクチルらしいと思います。

最後に言いたいことがあればどうぞ。

ヒ:『SHINOGRAPHIA』寄稿の公募に応募したきっかけは、樋口円香に対して抱いている思いを言葉にしたかったからでした。批評や考察では、手持ちの武器ではどうしても上手く戦えない。いってしまえば「なんでもあり」な散文形式である小説でしか表現できないと思ったからです。当初は全く別のプロットだったのですが、行き詰って白紙に戻し、今の形になりましたが、結果的に良い文章が書けたと思います。少し余談をしてもよいでしょうか。
 これはある友人の受け売りなのですが、小説は義務教育を受けた人ならスキル的には誰でも書けると考えています。国語は主要三科目に入っていますし、作文もさせられ、文学作品も相当精読させられる。だから文章のスキル自体は誰もがベースとして持っている。もし主要三科目に美術が入っていたら文章を書くのと同程度に絵を描けるようになっているはずです。だから、何かを表現したいと思っている人がいたら、まず何でもいいから文章を書いてみて欲しいです。例えば、自分の部屋の壁を言葉で描写してみる。壁に物を擦り付けた跡があったとして、実際はそんな跡はなくてもいいんですが、これをいま即興で文章にしてみると、「何かが擦り付けた跡が黒く、ぶつかったときの速度をそこに残して浮かんでいる。いや、浮かんでいるというより、染み出しているといった方が適切かもしれない。跡が滲出させているのは無地の壁紙だった。その白い表面は正確には何も描かれていないとは言えなかった。斜めから見るとよくわかるが、エンボス加工による細かな凹凸によって影を落としている。一見無秩序に見える凹凸は、その実じっと見つめていると、各部分がだんだんと一定のパターンに収斂していき、さらに瞬きをせずに見つめていると、しまいにはうねうねと踊りだした」って感じになります。これはインタビューの最初の方に言えばよかったかもですが、イメージをそのまま、思いついたまま書き出すというのは、千葉雅也がnoteやTwitterで書いている創作論に影響されています。僕が小説を書けるようになったのも、彼の影響が大きい。千葉雅也の創作論を概観するには『センスの哲学』を読むのが早いと思います。
 まあ、何が言いたいかというと、『SHINOGRAPHIA』を読んだ誰かが、自分でも何かを書き始めることがあるといいなと思います。みんなも小説書こうぜ!

ツ:かれこれ僕も小学5年生の頃からブログという形で意識的に文章を書き始めて16年あまりになりますが、「みんなができること」である文章を書く行為を、衒いや卓越しようという下心からできるだけ遠ざけて批評や小説を創作できるようになったのは本当につい最近で、ヒナーシャさんの言葉はこれから何かを書こうとする方々にとっては僕が初めの方に入れてしまっていた力こぶを良い意味で脱力させてくれるような言葉だと思います。
 文章を書くことに伴う喜びや、胸のときめきといったものも同時に今回の全三回の対談を通じて再確認できました。ヒナーシャさんには対談企画の掉尾を飾っていただきましたが、シャニマスから幻覚体験、文学、精神分析、そして創作についてなど、僕が主宰の雑誌の対談企画らしいまとめになったかと思います。本日は二時間お付き合いいただき、ありがとうございました。

ヒ:ありがとうございました。

(取材・文:ツァッキ)

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