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【読書感想】坂口安吾「堕落論」「続堕落論」

「堕落論」は一読しただけでは、頭に入ってこなかった。
安吾が定義する「堕落」という言葉のニュアンスや、
文意を理解することが難しかったからである。
なので、本来の解釈は異なるかもしれないが、
私見として坂口安吾の「堕落論」「続堕落論」について書き残したい。


はじめに

「堕落論」は、確かに今現在に当てはめても、
力を持ち続ける作品であると思う。
(数ページしかなく、短くてすぐ読める)
しかし、見方を変えれば、安吾は人間の本性とは何かを、
普遍的に論じているために、具体的処方というよりかは、
バイブル的なものに留まる。(それでも十分すぎるが)

だからこそ、色々と答えを求めてしまう私は
わかるけどわからないという感想を抱いてしまうのである。

安吾が人間に求めるものとは

人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。(中略)大義名分だの、不義は御法度ごはっとだの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ。そこから自分と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。

「続堕落論」

何か社会的に規定された、纏わされた自分ではなく、
本当の「私」になるのが、人間の正しい姿であると、安吾は説く。
戦時下のことを想像すれば、好きなもの好きと、
ダメなものをダメと言えない時代だからこそ
痛感したものであったことが再認識される。

今なお、そういった境遇にあたる人はいる。
しかし、私はそういった点では恵まれており、
好きなものを好きと言える人が周りにいて、
好きなものを買える境遇にいる。
それでもなお思うのは、私の「赤裸々な心」とは何なのであろうか。

自分の好きにも本性的なもの以外に、
社会的に好きとされたものがあると考えるが、
しかし、そこまで考えるのは、安吾の意図とは異るような気もし、
野暮なのだろうとも思うのである。
いやしかし、現代は情報が蔓延する社会であるからこそ、
生の指標に関する思想が強大であった時代に比べて、
人の感性的なものが社会幻想に影響を受けやすいとも言えるのではないか。

なんとも言い得てはないような気もするが、
現代は現代なりのカラクリが潜んでいるのではないかと疑ってしまう。

いずれにせよ、私は安吾の「欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。」この言葉がすごく好きだ。
これが私が「私」であると思う条件なのだと思うのである。

「堕落」とは

次に、安吾は人が生きることとは、「堕落」することであると言う。

(前略)人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。(中略)人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。(中略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

「堕落論」

生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。

「続堕落論」

長い引用になったが、
「堕落論」「続堕落論」で安吾が後半に書き記した文章であり、
核心と言える部分である。
要するに、「自分が救われる(自分自身の天皇を編み出す)には、
正しく堕落し、せつない人間の実相を厳しく見つめる必要がある」
というのが安吾の主張である。

ここでいう「堕落」とは何か。
安吾が「堕落」について触れている箇所に着目する。

(前略)先ず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕おちよ。復員軍人は闇屋となれ。堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。

「続堕落論」

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。

「続堕落論」

 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。
 悲しいかな、人間の実相はここにある。しかり、実に悲しいかな、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。

「続堕落論」

一つ目には、「堕落=悪いこと」と明記されている。
安吾が単に「堕落」を肯定するといった、
二元論的な見方をしている訳ではないことが改めて窺える。

安吾は堕落自体を肯定というよりかは、
人間にとって必然的なものと考えており、
人間は堕落する生き物だ、という枠組みの中で、
我々はどうすべきかを考えるべきだと主張しているのである。
「まず堕落することを意識せよ」と主張しているように感じる。

ここでの文意は、執筆当時の社会規範や社会通念上の道徳として、
未亡人が恋愛することや、復員軍人が闇屋になることは、
よくないことだとされている価値観があったことがわかる。

つまり、安吾は当時の社会的価値観を認めた上で
「堕落=悪いこと(のように見える)」と書いたと考えられる。

そして二つ目と三つ目の文章では、
「堕落」は常につまらぬものであり、社会規範からハミ出して、
常に孤独なものであると、安吾は述べている。

安吾の考える「堕落」とは、
今の社会、ある規範のもとでは生きていけない、
時代的か共同体的かの価値観を受け入れられない
というニュアンスであると考えられる。

人間は堕ちぬくためには弱く、つい社会的な規範に安住してしまう。
だからこそ、そこから堕落者となり、
自分自身を発見しなければ、救われないのである。
しかし、「我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで」あり、孤独に耐えうるほどの余程の忍耐がない限りは、
間違えながら堕落していく道を歩むのである。
まずは、「人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」
ということを自覚することが第一歩である。

というのが安吾のメッセージであると考える。

さいごに

小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。

「堕落論」

今ある社会制度や観念、思想は、所詮ある人間が作ったものにすぎず、
社会に存在する一般的な価値観に馴染めない、
受け入れられないと感じる人がいるのは当然である。
だからこそ堕落者が存在するのも頷ける。

しかし、堕落者は辛い。孤独である。
現代社会で生きるのは、食糧の他にライフラインの確保が必需である。
となると、堕落者も結局は現代社会という枠の中に、
還元されなければ生きていけないのではないかと思う。
そこらへんは上手いやり方はあるのかもしれないが、
どうすれば良いのだろうか。

堕落の先にある、生きるためにはどうすべきかという問題が、
つき纏わずにはいられない。

そしてまた、私自身を見つけるためには、
堕落以外の方法もあるのではないかとも思う。
安吾に言わせれば、「それこそ社会規範の中にいるに過ぎない。堕落すべきだ。」と言われるかもしれないが、
何が幸せか、生きる希望かと問われれば、
今の社会規範と一定の距離を保ちながら自らの拠点を築けるのではないか、
とも思うのである。

堂々巡りな議論になってしまうが、何が堕落で何が堕落でないか。
それを考えるのも堕落の道の一歩なのだと。

いつもまとまらない内容を書いているような気もしますが、
最近は、そんなもので良いのではと開き直っています。


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