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志村けんさんのシリアス無言劇と母の涙

 チャップリンサイレント映画を考えていると、なぜか志村さんの「志村けんのだいじょうぶだぁ」の中のシリアス無言劇の事を思い出した。

 母は泣きたくても泣けない女性だった。
 祖父母のお葬式でも父のお葬式でも泣けない自分を責めた。「冷たい女だと思われても、涙がでない」と憔悴しきった顔で私に言った。
 母はお笑いが好きだった。TVは「笑えるのが一番」と言って、笑い声は一段と高くなった。

 その年は淋しいお正月だった。
 帰省したのは私一人で、父はうつ病のため入院していて、祖母は一年くらい前から認知症を発病し、部屋にこもったままだった。
 TVではお正月にふさわしく華やかな腰元を引き連れ志村さんのバカ殿様がおどけていた。私は炬燵で、母はマッサージ・チェアを使いながらテレビを見ていた。

 やがてTVからセリフが消え、静かに音楽(宗次郎「悲しみの果て」)が流れ始めた。志村さんは老人に扮し床を敷き横たわっていた。老婆役の若い歌手は枕元に座り、コメディアンの医者は神妙な面持ちで診察を続けていた。そこに孫を連れた娘が飛び込んできた。それはどの家庭でも起こる日常だった。コントとコントの間に挟まれた笑いのない退屈な日常のドラマ…。

 次の場面で志村さんは若返り、赤ん坊を抱いている。桜が咲き、女の子はランドセルを背負い、そんな娘に志村さんは目を細め、次の場面では、小学校の授業参観で、後ろの方で不安そうに娘をみつめていた。
 やがて娘は成長し、父を罵り、戸をきつく閉めて、自室に籠って泣いている。その間も単調な音楽は続き、父である志村さんは、なす術もなくおろおろするばかりだった。

 母はじっと画面を見ていた。
 母は養女だった。本当の父を母は知らない。母の生みの親は養母の妹だった。若くして子供を作り離婚し、子供のできない姉である祖母に引き取られた。
 テレビでは、志村さんが娘の受験祈願のためにお百度参りをしている。娘は無事大学に入学し、彼氏を連れて家に現れ、やがて嫁ぎ、初孫を生み、今老いた志村さんの枕元にいる。
 そして志村さんは満足そうに笑って静かに目を閉じた。妻と娘の呼びかけに老人はもう答えなかった。

  ほんの10分弱のドラマの後に、やたら賑やかなCMが始まり私は無理矢理、正月気分に引き戻された。それなのに母はマッサージ・チェアに座ったまま目を開き、まるで意志とは関係なく流れてくる涙を、しきりに拭いていた。それは泣くというより、身体が勝手に反応してしまい、困惑しきっているように見えた。

 この志村さんの無言劇が母の目にどのように映ったのだろうか。生まれてすぐ実母から引き離され、田舎にもらわれ、生年月日を二つ持つ母。芸者の子と呼ばれ、もらいっ子と言われ虐められた母。
 田舎で大火に遭い財産を失い、満州に渡り終戦を迎え、再び大阪で事業を始め失敗し田舎に舞い戻った、そんな波乱に満ちた養父の生き方に翻弄され続けた母にとって志村さん扮する老人がどう見えたのだろうか?

 志村さんの自伝的エッセイ「変なおじさん」を読むと、志村さんの父は柔道5段の厳格な小学校教師、暗い家族で家の中でふざけた記憶もないという。その父親への反発からお笑いをめざしたが、その父は志村さんが中学の頃、家の前で交通事故に遭って、その後遺症でボケるようになったという。

僕はコントでよく変なじいさんをやるけど、あれはボケてたころのオヤジの様子をギャグにさせてもらったものだ。

引用「変なおじさん【完全版】(新潮文庫)」志村けん著

 志村さんは「変なおじさん」の曲は語呂が似ているだけで「ハイサイおじさん」を使ったという。ただ「ハイサイおじさん」沖縄戦で精神を病んだ喜納さんの隣人のおじさんがモデルだという。どちらも音楽やコントの中に自分自身の深い悲しみを、明るい音楽や笑いに変えたいという強い思いが込められているように思う。

 志村さんの言葉のない演技から伝わる切実な何かが、長年、泣きたいのに泣けなかった母の石のように固まった心を深く揺さぶったように思う。
 生きていればまさに「キネマの神様」になったであろう俳優・志村けんさんの第二の人生を見たかった。

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