見出し画像

雪の夜行列車と祖父の言葉と布袋さん

 各駅停車の夜行列車には、人はまばらだった。車窓は、足下からの蒸気暖房で白く曇っていた。指でこすると、キュキュと物悲しい音がした。
 窓の外は真っ暗だった。真っ暗の中、小さな生き物のように無数の雪片が舞っていた。
 1983年、冬、祖父が倒れ入院した。私が夏、帰省した際には、祖父の喉から遠い海鳴りの音が聞こえていた。

 祖父は、左官屋の棟梁だった。大阪で仕事をして、芸者をしていた祖母と結婚した。戦争が始まり、二人は子供を連れ満州に渡り、終戦後は、田舎に戻り、祖父は知り合いの大工と共に自分で家を建てた。
 天井の梁には、丸太に枝の切り株が残った大木が使われていた。
 2階の部屋にも丸太に枝の切り株の残った柱があり、弟と私はよくその柱に上って遊んだ。
 戦後、祖父は大阪の知り合いの伝手で製紙工場の下請け仕事をした。
家の一階は工場となった。やがて仕事が多忙になり、使われなくなった旧小学校で製紙工場を開き、工場長になった。

1階に祖父の紙工場のあった明治時代に建てられた小学校校舎

 私が『祖父危篤の知らせ』を聞いた時、既に急行も特急もなく、田舎に帰る手立ては各駅停車の夜行列車だけだった。電車に乗り込み、冷えた幕の内弁当をかきこみながら、この帰省が、無駄足に終わる事だけを祈った。
 
 祖父は一風変わった人だった。お酒は、自分の適量をわきまえ、どんな人に勧められても「もういい」と言ってお猪口を逆さまにして、それ以上一滴も飲まなかった。祖母は「お酒の飲み方が綺麗」と言って、祖父をいつも褒めていた。
 「大きな音は迷惑だ」と言って微かな音の口笛を吹いて、夕暮れ時に毎日村中をぶらぶら散歩した。適当に吹いていると思ったが、数年前ビールのCMで流れていた映画「第三の男」のテーマ曲に似ていた。

  祖父は、マジメな話よりくだらない冗談が好きで、まともな会話が成立しなかった。祖母はよく「しょーもない事ばっかりゆうて…」と怒っていた。 

 福知山を過ぎた頃から雪が舞い始め、豊岡から城崎あたりで1メートルを超える積雪だった。列車は、雪の積もった誰もいない駅に止まり、車掌は無線で何事か言い、獣の叫びのような警笛を鳴らし、ゆっくりと動く。
 その繰り返しで、やがて私は眠ってしまった。
 浅い眠りの中で、子供の頃、空から舞い落ちる無数の雪片を見ていたら空に吸い込まれていくような錯覚に陥った事を思い出した。
 午前4時過ぎ、やっと郷里の駅に着いた。雪のため国道でタクシーを降り、雪道の向こうで一軒だけ灯りをともしている生家を見て、なぜかほっとした。両親はまだ病院にいて、祖母だけが家の炬燵で私を待っていた。

 祖父は自分が不治の病である事を知らなかった。4ヶ月前に会った時は、痛みも少なく、釣りや散歩の普通の生活を楽しんでいた。
 祖父は、病院で目を覚ました時、遠方からの親戚たちを見て心底驚いた。
「どうして、お前たちがここにいるのか?」
 そして目を閉じた。
 もう一度目を開けた時、祖父は「もういい」と言って、再び目を閉じた。
 
 私は炬燵の中で、祖母から数時間前に実際に起きた出来事を、遠い事のように聞いていた。間に合わなかった事でなく、祖父の最期の「もういい」という言葉だけが心に刺さり、切なかった。
 私は「もういい、もういい…」と心の中で呟きながら、もう一度、夜明け前の外に出た。
 私は子供の頃のように無数の雪片が舞う空を見上げた。でも空に吸い込まれる気分にはならなかった。祖父の死をうまく受け止める事が出来なかった。ずっと何が「もういい」のかわからなかったけど、ただ切なかった。
 
 この記事を書き、祖父との記憶が蘇った。
 お正月の神飾りのしめ縄は祖父の手作りだった。長い縄を切って、器用に編んだ。祖父とするお正月の準備は楽しかった。
 夜になると誰も読まない子供部屋の百科事典を取り出し読んでいた。あらかた読むと、兄や私の本棚から石川淳や安倍公房の本を持って行った。
 私が「難しいよ」と言ったら「バカにすな」と笑った。私は祖父の事を何も知らなかった。最後の夏に、今度は「源氏物語」を読むと言っていた。

 祖父は明け方よく釣りに行ったが、小さな鯵やたまにイシダイを釣るくらいで、ほとんどボウズ(一匹も釣れない事)だった。
 私は、たまに明け方の祖父の釣りに付き合った。その日もまるで釣れず、祖父と一緒に波打ち際の岩場で岩のりをとった。岩のりは、味噌汁に入れると格別においしかった。

 子供の頃、祖父とよく蛍を採りにいった。祖父は、その蛍を子供達が眠る蚊帳の中に放った。
 暑くなると家の前に涼み台を出し、夕方5時から8時までは外で過ごした。ふらりとやってくる近所の人と世間話や将棋をした。
 祖父の側で私と兄や弟と、ネズミ花火、タコ花火、蛇玉など仕掛け花火をし、スイカやアイスを食べ、寝転んで星座を探した。
 村の祭では、いつも呼び出され、お囃子や獅子舞で横笛を流暢に吹いた。掛け軸に凝り、四季折々の掛け軸をかけた。掛け軸の前に福袋を担いだ布袋さんの像があった。
 
 1900年明治33年生まれの祖父は、日露戦争から思春期の青春時代は第一次世界大戦、30代で満州事変が勃発、30代から40代を第二次世界大戦中に過ごし、やっと落ち着いた頃には中年期。
 何もかも失って、一から家を建て、仕事をみつけ、家族を養い生きた。
 祖父が、散歩や釣り、夕涼みや祭、日々の適量の晩酌を心底愛していた意味がやっと分かった。

 祖父の「もういい」は、祖父がお酒をストップするときの言葉だった事をやっと思い出した。
 その時の祖父は、ほんのり頬を染め上機嫌で、床の間の福袋を担いだ布袋さんによく似ていた。

記憶の中の祖父に似た布袋さんの像


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?