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Bend Down Lowに関するあれこれ(パート2)

結婚が問題に

「パート1」で紹介した米移民局公開資料によると、キングストンのアメリカ領事からリタの移民ビザ申請に関する連絡を受けた米移民局フィラデルフィア支部は結婚を理由にボブの移民ビザを失効扱いとし、ボブに対して取り調べをおこなっています。

取調官にボブは「結婚に関するルールは知らなかった」と答えています。

そして、強制送還されるのではなく、任意で出国することができるならそうすると語っています。

失意の帰国

リタを呼び寄せるのに失敗し、自分の移民資格まで失ってしまったボブは結局「自由意志」で1966年10月に合衆国を離れました。

移住計画がポシャって相当ガッカリしただろな~と思うんですが、ボブはそれで自暴自棄になるようなヤワな男ではありませんでした。

8カ月のアメリカ滞在中、ウイルミントンの名門Hotel Du Pontで床掃除したり、自動車メーカーChryslerの工場でフォークリフトを運転して貯めたお金でボブは帰国後ウエイラーズのために独立メーベルWail’n Soul’mを立ち上げます。

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Wail’n Soul’mは自主レーベルであると同時に自分たちで経営するレコードショップの名前でもありました。

店の所在地はトレンチタウン。ボブとリタが暮らしていた部屋がショップを兼ねる形だったようです。

黒人解放運動との出会い

さまざまな困難に直面してWail’n Soul’mはたった2年で消滅してしまいましたが、短期間に12枚のシングルをリリースしています。

Bend Down Lowを始め、その多くはボブがアメリカ滞在中に書きためていた曲でした。

1960年代中期のアメリカで公民権運動ブラックパワーのビッグウエーブを肌で体験したボブは多大な影響を受けています。

例えば黒人の解放を歌った歌詞が公民権運動とのリンクを感じさせるこれ。

 そしてジェームズ・ブラウン・スタイルのファンク・ビートに乗せて説教師のように言葉を叩きつけるこれ。

お金以外に新しい時代の風が吹いていた合衆国でボブが得たものはすごく大きかったに違いありません。

セラシエとは遭遇できず

ジャマイカを離れていた間にボブは「得た」だけでなく、「失って」もいました。

1966年4月にラスタにとって救い主的存在であるエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪問していたからです。

まだラスタではなかったボブですが、当時トレンチタウンに大勢いたラスタファリの教えや生き方に関心を寄せていた若者のひとりでした。

同じようにラスタに惹かれていたリタはキングストン市内を車で記念パレードしたセラシエ一行を見物に行って彼の掌に「聖痕」があるのを自分の目で確認して即座にラスタになったそうです。

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眉唾ものの目撃談ですが、この時大勢の若きジャマイカンが「黒人の王」の姿を目の当たりにしてラスタになったのは間違いないところです。

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ウエイラーズの仲間Peter ToshBunny Wailerもボブ帰国時にはすでに熱心なラスタになっていました。

プラノーの影響下に

国外にいたため完全に「出遅れた」ボブは彼らの後を追うように近所に住むラスタ長老Mortimer Planno(モーティマ・プラノー)から教えを受け、一気にラスタの世界へと入っていきます。

この人

プラノーはかなり頭が切れる人物だったようです。

彼はすでに人気グループだったウエイラーズを利用してラスタファリの教えを音楽で広めようと考え、ボブたちを説得して一時期グループのプロデューサーを務めました。

プラノーのプロデュースでウエイラーズが1968年6月に録音した異色作がこれです(未発表曲です)。

個人的には「うう~~ん」って感じの歌詞ですが、これが当時のウエイラーズの3人とリタのラスタ信仰のあり方だったんだと思います。

ボブの考えは曲折を経てここから変わっていくんですが、この曲で歌われているハイレ・セラシエ皇帝=現人神という世界観がスタート地点でした。

実はウエイラーズ+リタはこの後すぐにプラノーの影響下から脱出します。

Bunnyはインタビューでこう言ってます。

「俺たちはプラノーに不満を抱いたんだ。あいつは売春宿と山ほど問題を抱えていたんだよ。そして金曜の夜になると俺たちをダウンタウンのダンスホールに連れ出そうとした。でも俺たちはハイレ・セラシエのジャマイカ訪問以来そんな生活とは縁を切っていた。もうドレッドロックになってたからダンスホール行ったり、ビールを飲んだりするのはやめてたんだ」

正しい生き方を説いていたラスタ長老プラノーが実は倫理面で思いっきり堕落していたという告発ですね。

そんなことも関係あったのかもしれません。プラノーがウエイラーズに関わり始めてからボブはまったく曲が書けなくなってしまったそうです。

ゲットーを脱出、山へ

Bunnyによると、ウエイラーズはこの頃一度完全に音楽活動をストップしてキングストンを離れてプラノーから距離を置いたそうです。

レーベル関係者全員でボブの生まれ故郷Nine Mileに行って自然の中で土を耕す生活をして自分たちを取り戻したと語っています。

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1966年から1968年にかけてのこういった激動の体験が後年のボブの詩作の幅を大きく広げたのは間違いないところです。

さらに重要なのは、もしアメリカ移民計画が成功していたらたぶんボブはひとりの平凡なジャマイカ系アメリカ人で終わっていたということです。

というわけで今回は合衆国移住に失敗したボブが実行した「プランB」とその後の出来事に関するあれこれでした。それじゃまた~

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